およそ2年9か月ほど前に書いた「初代雪ヶ谷駅の場所を検討する(雪が谷大塚駅の歴史 番外編)」の続き、と言うよりは新たな知見を得たことで、続編としておおくりする。なお、新たな知見とは、これも古い記事(1年半ほど前)だが「池上電鉄奥沢線(新奥沢線)の歴史を探る その14」に示した奥沢線(国分寺線、新奥沢線)計画における「新」雪ヶ谷駅の図面等である。
地図資料等から「初代雪ヶ谷駅の場所を検討する(雪が谷大塚駅の歴史 番外編)」では、巷間言われている『「回想の東京急行 I」並びに「鉄道廃線跡を歩く VII」では、初代雪ヶ谷駅は石川台1号踏切際(蒲田寄り)にあったとしている』ではないと証明したところだが、奥沢線計画における「新」雪ヶ谷駅の場所は、昭和4年(1929年)1万分の1地形図に掲載されている場所ではないことも最近わかった。まずはこのあたりから説明していこう。
昭和4年(1932年)における陸地測量部1万分の1地形図と同様に、同時期の3千分の1都市計画図でも上に示したように二代目雪ヶ谷駅、つまり奥沢線(新奥沢線)開業後の雪ヶ谷駅は、現在の石川台3号踏切の南側に位置していた。だが、奥沢線(図面上は国分寺線)計画時の「新」雪ヶ谷駅は石川台3号踏切ではなく、それより北に位置する現在の石川台2号踏切南側に位置しているように書かれているのである。
概ね、北が上となるように図面を回転させている。ここに記載されている道路パターン(街路・街区)は、まだ池上西部耕地整理組合(雪ヶ谷地域あたりを含め、昭和初期に今に言う土地区画整理事業を行った組織)が耕地整理を行う前のものなので、この図面を的確に読むために現在の航空写真に古い道路パターン(=耕地整理前)を書き込んだものを示そう。
ちょっと縦長気味だが、池上電気鉄道線をわかりやすくするためと、呑川(この地域では石川とも呼ばれていた)の流路が耕地整理前と今では決定的に異なるので、それを示すためと、二つの理由から縦長となった。池上電気鉄道線は、第二期開業(池上~雪ヶ谷)までの状況にとどめており、赤っぽい色で描いてある。先端付近が初代雪ヶ谷駅の位置となる。また、第三期工事区間(雪ヶ谷~五反田)の計画線はこの航空写真に含まれている部分についてはほぼ現在と変わらないので、写真に示されたように延長されると解していい。そうなると、計画図面上の「新」雪ヶ谷駅の場所はどこになるのか、おおよその見当がつくはずだ。
まず、図面上側に見える線路を渡る道路(国分寺線起点と書かれているすぐ上あたり)は、航空写真との重ね図でいうと、図中央やや右寄りを縦に走る道路、これは南は御嶽神社の東側につながり、北は中原街道に接続する、今は失われている道路である。この道路が線路を跨いでいるところはと見れば、現在の石川台1号踏切と同2号踏切の間だとわかる。そして「新」雪ヶ谷駅の南側(図では下方)の細い道路は、現在の石川台1踏切あたりを東西に通る道路、赤い線の上側を東西に走る道路である。また、計画図中、最も太い「新」雪ヶ谷駅すぐ北側(図では上方)の道路は、航空写真重ね図には存在しない今日の石川台2号踏切のある道路である。以上から「新」雪ヶ谷駅の位置は、計画図上は石川台3号踏切の南ではなく、石川台2号踏切の南となり、奥沢線開業後の二代目雪ヶ谷駅よりも北側となるのである(とはいえ、石川台1号踏切まではいかないが…)。
上の説明をさらに補完するものとして、以前にも示した池上電気鉄道第三期線計画図面を示しながら論を進めよう。
図面の一部、雪ヶ谷駅付近を北が上となるように抜粋した。ご覧のように「新」雪ヶ谷駅の図面と道路パターン等が似通っていることが確認できる。「新」雪ヶ谷駅計画図にあって、この第三期線計画図面にない道路は「新」雪ヶ谷駅北に位置する太い道路のみであることもわかる。また、初代雪ヶ谷駅からの起点が3マイル72チェーン(この距離は本線の大森駅から池上駅を経由し雪ヶ谷駅先までのもの)であり、三期線の4マイル地点(図中◎と4Mと表記)も参考になる。この位置関係と距離をおさえつつ、「新」雪ヶ谷駅計画図に記された距離関係の数値を見てみよう。
「新」雪ヶ谷駅の中心点が「既成線 3M 77C 35L」(3マイル77チェーン35リンク)とある。第三期工事起点からだと5チェーン35リンク(約107.62メートル)先に中心点があるとなるだろう。
また、国分寺線起点とある中原街道~御嶽神社道路との交叉付近は「既成線 4M 3C 0L」(4マイル3チェーン0リンク)とあるので、「新」雪ヶ谷駅中心点からの距離は5チェーン65リンク(約113.66メートル。なお、1マイル=80チェーン)。そして、第三期線計画図に示された4マイル地点を考慮に入れれば、計画図面上の「新」雪ヶ谷駅の位置が現在の石川台2号踏切の南となるのである。
以上の考察から、新たな疑問が浮かび上がってくる。タイトルでは初代雪ヶ谷駅の場所を検討するの続編としたが、初代よりも二代目に決定するまでの間、つまり奥沢線(新奥沢線)として開業する前の国分寺線としての計画時において、いかなる変遷から二代目の場所に落ち着いたのかという経緯である。この計画図では現在の石川台2号踏切の南側に特定されるが、実際には石川台3号踏切の南側に開設(移設)した。その前には、調布大塚駅や初代雪ヶ谷駅から田園調布駅を目指す計画もあって、文字通り紆余曲折したと思われる。そのあたりの解明もしたいところだが、いかんせん史料の問題で困難を極める。そんなこんな愚痴りながら、今回はここまで。
石川台2号と3号の間の鉃道用地が広くなっているのも駅の跡かも知れませんね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/03/31 13:10
地元民です。興味深い記事ありがとうございます。
投稿情報: 地元民 | 2017/10/12 00:16