リビアがチュニジアから始まった民主化の流れに曝されて、内戦状態に移行しつつある中、ふと思い出したのは世界史の授業などで「アフリカ大陸の列強による分割」である。アフリカ大陸の植民地が独立するのは、ほとんどが第二次世界大戦後に実現し、リビアも1951年に独立(独立宣言は1949年)したのだが、独立した相手は英仏に対してであった。イタリアは第二次世界大戦で敗戦国となり、リビア植民地を英仏に奪われていたからである。では、100年前(西暦1911年)はどうだったのか?と言えば、まだオスマン帝国(オスマン・トルコと学習された世代もあるだろうが、今はオスマン・トルコという呼称はマイナー扱い)が宗主権を握っていたのだった。そして、1911年9月末にイタリア王国はオスマン帝国に対し、トリポリタニア(現在のリビア首都周辺地域)割譲を要求。翌月より戦端が切って落とされた(伊土戦争)。この戦争は1912年10月18日開催のローザンヌ講和会議で終結し、イタリアはリビア植民地のベースとなるトリポリタニア、フェザーン、キレナイカの3州を手に入れた(我が国で大正時代に刊行された世界地図より一部を以下に示す。1914年時点で文字は右から左に読む)。
というわけで、100年前のリビアはまだオスマン帝国を宗主と仰ぐ(建前上だったかもしれないが太守等の報酬がオスマン帝国の給付からということでこう表記してもいいだろう)、欧州列強植民地とは縁遠い地域だったのである。とはいえ、リビアがそれほど豊かな土地ではないとされていたことが植民地化の遅れた理由(英仏が手を出しておらず、19世紀に統一国家を実現した独伊が手を出せたことから自明)であったわけだが。
このおよそ100年前にあった伊土戦争(1911~1912年)では、史上初めて飛行機械(ここでは飛行船)による空襲が行われた戦争としても知られるが、先月邦訳版が刊行された「アトラス 世界航空戦史」(原著名「Atlas of Air Warface」)によれば、
「北アフリカにおけるフランスの台頭に対抗するため、イタリアはオスマン帝国に対してリビアの所有権を主張した。それに続く戦争では、すべて外国製、総数11機のイタリア機が陸軍の支援に投入された。これらは大半が偵察任務をおこなったが、1911年11月1日にギリオ・ガヴォッティ大尉が、自分が乗るブレリオ機から4発の手榴弾をタジュラのオアシスにあるオスマン帝国陣地に落とし、これが史上初の空襲となった。」(「アトラス 世界航空戦史」原書房 P22より引用)
とあり、これを空襲と言っていいかどうかは疑問符がつくレベルだが、続く第一次世界大戦では早くも飛行機同士による戦闘が開始されるなど、空からの地上攻略は圧倒的な優位性をもたらすのみならず、偵察という点においては他にかなうものはない(航空写真の威力は戦争以外の分野でも圧倒的だ)。
以上、100年前のリビアがどうだったのかを簡単に見てきた。まだ第一次世界大戦前なので、世界観が遠い昔のことのように感じてしまうが、まだ100年程度しか経ていないということに驚きを覚えつつ、今回はここまで。
現在流動的な状況となっている中東諸国とオスマントルコ帝国の最盛期の勢力範囲を重ね合わせてみるとほぼ一致します。独立後も基本的には部族の連合体であり強力なリーダーシプでのみ統治がか不可欠であり、しかも油田が集中していることもこの地域の特徴です。しかも豊富なオイルマネーで住民も非産油国と比較して経済的に恵まれているのに、住民は不満を訴えています。貧しさではなく等しからざるを憂えると言う心理は何年経っても変わらないのもまた事実です。これ以上混乱が広がらないことを祈るのみです。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/03/06 17:47
追伸
トブルク等の第二次世界大戦の連合国と枢軸国都との間の古戦場の名前が新聞紙上に登場するようになりましたが、ロメル将軍も草葉の陰かから推移を見守っているでしょう。日本の政党の派閥の取り込み合戦同様に政府側と反体制側との間で部族の抱き込みにしのぎを削っているようです。日本のようなオイルの消費国としては為政者が誰であろうと石油を安定的に供給してくれるように争乱が収斂することを祈るのみです。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/03/08 23:39