「週刊朝日百科 週刊 歴史でめぐる 鉄道全路線 大手私鉄」シリーズが全20冊ということで7月27日より刊行されているようだが、1冊目と2冊目は結構書店店頭で見ることができたのだが、その後は全然見えなくなり、思い出したときには店頭にないとか、あるいは入荷しないとか、書店によって様々なようである。そんな中、東急電鉄の号が出たということで探しに探し回ってようやく見つけたのが「週刊朝日百科 週刊 歴史でめぐる 鉄道全路線 大手私鉄06 東京急行電鉄①」である。
で、ざざっと読んでみたところ、意外に…といっては失礼だが、致命的記述ミスも少なく(そんなに多い文書量ではないが)、まぁまぁいけるのではないかと思った次第。とはいえ、やはり東急池上線周りの記述がどうなっているか気になり、腰を落ち着けてじっくり読んでみたところ、細かいことを含めて以下の部分が気になった。順に列挙していこう。(なお、表紙を入れて全36ページのうち、東急池上線関連はわずかに3ページしかない。)
全国にある「○○銀座」の第一号として知られる戸越銀座商店街の最寄り駅。(24ページ)
これについては、当blogで以前にふれたように「戸越銀座は○○銀座の第一号ではなく、単に商店会の自称に過ぎない」のであって、これを受け売りすれば記述どおりとなる。ただ、大正末期の同時代資料を見れば、○○銀座とは新興商店街を指す言葉として通用しており、戸越銀座周辺を見ても小山銀座、蛇窪銀座などとあり、これを東京圏に広げれば多数に上る。実際、目黒蒲田電鉄小山駅(現 武蔵小山駅)周辺が関東大震災後に一大商店街を形成した際、既に小山銀座と通称されている。このことから、丁寧に歴史を検証すれば商店街の自称に振り回されることもないはずだが、そこまで調べる気がないのであればやむを得ない。
池上線は本来、池上電気鉄道が蒲田から池上本門寺へ参拝客を運ぶための路線で、池上駅はその門前に造られた。(25ページ)
池上電気鉄道の軽便鉄道法に基づく特許申請前の初期計画では、確かに池上本門寺門前に駅(停留所)をつくる計画だったのは間違いない。ただし、初期計画は馬車鉄道の延長のようなもので、路面電車での構想であった。それは「池上道」上を走る鉄道であり、必然的に門前に駅ができる(約100メートルほど離れた場所)ようになっていたのである。しかし、実際に開業した際(つまり現在の池上駅とほぼ同じ位置)、門からは400~500メートルほど離れてしまい、果たしてこれで門前と言えるかどうかは微妙である。
以上、ここまでが遠藤則男氏の担当と書かれている。では、続いて「東急の駅 今昔・昭和の面影」などの著者として知られる宮田道一氏及び編集部(年表が編集部、文が宮田道一氏となっているが、どこまでがどちらかを判別しがたいので一まとめ)の担当部分を見ていこう。
池上~雪ヶ谷(現・雪が谷大塚)間が延伸開業。末広(現・久が原)駅、御嶽山前(現・御嶽山)駅が開業。(27ページ)
やっぱりここでも、光明寺駅がなかったことにされている。正しく書くなら、「池上~雪ヶ谷(現・雪が谷大塚)間が延伸開業。光明寺駅(現在は廃止)、末広(現・久が原)駅、御嶽山前(現・御嶽山)駅が開業。」とすべきである。光明寺駅については、当blogでも断片的に取り上げているように鉄道ファン向けの歴史記述では「なかったこと」にされていることが多く、その責任の多くは東急電鉄OBにあることを付言しておこう。
池上電気鉄道が雪ヶ谷~国分寺間の鉄道敷設免許を取得。(27ページ)
最近、当blogで奥沢線の歴史を長~々と書いているが、ここで確認したように「雪ヶ谷~国分寺」の鉄道敷設免許は存在せず、「雪ヶ谷~田園調布」と「田園調布~国分寺」の2つの免許が正しい。そして許可の条件である接続先を田園調布から奥沢部落(地域)への変更は、工事施行許可申請時に行われたものである。簡単に記せば、記述どおりでもいいのだが、無批判に通説(例えば東京急行50年史)をコピーしているのであれば、記述の再検討が必要だろう。
雪ヶ谷駅と調布大塚駅が統合され、現在地に雪ヶ谷大塚駅が開業。(27ページ)
昭和8年(1933年)改名説を頑なに信じているようである。だが、このような事実は同時代資料に見ることはできず、昭和18年(1943年)に刊行された東京横浜電鉄沿革史では、すべて雪ヶ谷と記述されており、どこにも雪ヶ谷大塚を見出すことができない。ついでにいえば、現在地に移転したのも昭和10年代に入ってからで、この時期に現在地に移転したとしたなら、奥沢線(新奥沢線)の運行はどうしていたのか説明がつかない。悪しき伝承は、未だに継承されているといったところであろう。
池上電気鉄道が目黒蒲田電鉄に合併され、同社の池上線となる。(27ページ)
これは誤りではないが、池上電気鉄道を合併直後には、池上線という表記ではなく五反田線という表記が見られる。目黒蒲田電鉄・東京横浜電鉄のネーミングルールからすれば、途中駅名(地名)を路線名として採用することはなく、必ず起終点がらみ(目黒線、蒲田線、目蒲線、大井町線、二子玉川線、神奈川線、渋谷線、東横線)であり、しかも被合併元で目の上のタンコブ然とした池上電気鉄道に因む名前を採用したくなかったという視点で見れば、五反田線というのは妥当なものではあった。しかし、合併した翌年には池上線という表記になっているので、やはり知名度には勝てなかったとなるだろうか。
終点の大森付近は地価高騰が著しく、用地買収が困難になった。しかし鉄道院は大森終点の計画を支持し、蒲田~池上間を支線として申請するよう指導。(27ページ)
細かいが、大森は終点ではなく起点。免許上では、大森~池上~雪ヶ谷~目黒(のちに五反田)が本線であり、池上~蒲田が支線であった。本線の起点は大森、終点は目黒(のちに五反田)。支線の起点は池上、終点が蒲田である。
翌年4月4日、一部区間となる雪ヶ谷~新奥沢間の免許を取得し、8月上旬に着工。(27ページ)
ここにいう昭和3年(1928年)4月4日が何を指すのか。上文を読む限りは「雪ヶ谷~新奥沢間の免許を取得」としか読めないが、既に免許は本書にも見えるように昭和2年(1927年)12月16日に取得(許認可)されているので、記述自体は誤りであることがわかる。では、何と錯誤したのか。あくまで私の予想でしかないが(錯誤の理由は著者にしかわからないので)、おそらくは池上電気鉄道から逓信大臣宛に出された池発第105号文書「起業目論見並ニ工事設計変更許可申請書」ではないかと思われる。この文書の日付は「昭和三年四月四日」とあるので、もし当文書から「雪ヶ谷~新奥沢間の免許を取得」と判断したのなら、無理解も甚だしい致命的な誤りと断言できる。
池発第一〇五号
昭和三年四月四日池上電気鉄道株式会社
取締役社長 男爵 中島久万吉
主任技術者 定平建太郎逓信大臣 望月圭介 殿
起業目論見並ニ工事設計変更許可申請書
昭和二年十二月十六日附監三四五八号ヲ以テ鉄道大臣ヨリ東京府荏原郡調布村地内ニ鉄道営業ノ免許ヲ得更ニ又昭和三年二月十四日附ヲ以テ鉄道大臣宛東京府荏原郡池上町ヨリ同郡玉川村ニ至ル起業目論見変更届認可申請致候ニ付起業目論見並ニ工事設計変更致度別紙鉄道大臣ノ免許状及申請中ノ起業目論見変更認可申請書ノ写シ等関係図書相添電気事業法施行規則第六条ニ依リ此段申請仕候間特別ノ御詮議ヲ以テ御許可被下度奉願候也
これが池発第105号文書であるが、要旨としては「昭和2年12月16日に免許を受け、昭和3年2月14日に鉄道大臣宛に起業目論見変更届認可申請を行ったので、電気事業法施行規則に則り、逓信大臣宛にもそれらの写し等を申請する」というものである。要するに、電気鉄道であれば鉄道大臣の他に協議先として逓信大臣の許可も必要だということで出された文書であり、どこをどう読んでも「雪ヶ谷~新奥沢間の免許を取得」とはならない。
鉄道大臣宛に申請した「起業目論見書一部変更認可申請」は、上に示した池発第105号文書で確認できるように昭和3年(1928年)2月14日が申請日であり、当該許可は、
監第一三〇三号
池上電気鉄道株式会社
昭和三年二月十四日附池発第二七号申請池上町、玉川村間起業目論見書記載事項変更ノ件認可ス
昭和三年五月一日
鉄道大臣 小川平吉
のように昭和3年(1928年)5月1日になされている。つまり、これらのことから昭和3年(1928年)4月4日に「一部区間となる雪ヶ谷~新奥沢間の免許を取得し」という事実は見えず、予想どおりの錯誤が原因としたなら、もう少し文書の読み方についてしっかりした知識を求めたくなる。この程度の知識では、どんなに重要な第一級史料(資料)を参照したのだとしても、その価値は半減どころか無意味なものとなる。しっかりしてほしいものだ。
また、「8月上旬に着工」とある部分も疑問符が付く。というのは、以下の文書で確認できるように、
監第二七五三号
池上電気鉄道株式会社
昭和三年三月二十三日附池発第四八号申請雪ヶ谷起点、同一哩一鎖五十節間工事施行ノ件認可ス
本工事ハ昭和三年十一月三十日迄ニ著手シ昭和四年五月三十一日迄ニ竣功スヘシ昭和三年九月一日
鉄道大臣 小川平吉
工事施行認可は、昭和3年(1928年)9月1日になされているからである。残念ながら、8月上旬着工とする根拠を見出すことはできなかったが、これも錯誤であれば見出すことができないのも仕方がない。何をもって、8月上旬着工としたのだろう?
以上で、本書の東急池上線に関する部分で気になったところをあげてみた。なお、最後になるが、これをご覧いただこう。
ようやく、慶大グランド前駅でなく慶大グラウンド前駅と認知されたようである。といったところで、今回はここまで。
私も買いました。私の友人数名にも薦めました。みんな、「ない、ない」と嘆いておりましたが、それぞれ大き目の書店でゲットしたようで、吉報が次々に入ってまいりました(笑)
私の場合は、書店に予約したんです。これが確実入手ですね。
「慶大グラウンド」嬉しいですね。こちらが公式になりましたね。
やはり、駅名は、正しくあってほしいと思います。
大井町線のところですが、「東京オリンピックに向け、大井町線がオーバークロスする環七通りの拡幅工事が急ピッチで進む。」という写真が、私てきにはとにかく嬉しかったです。
この写真は、全く初めて見たものでした。こういう写真が、少しずつでも発掘されるといいなぁと心から思います。多分、もともとの写真数が少ないでしょうから。
投稿情報: りっこ | 2010/09/19 20:43
りっこ様、コメントありがとうございます。
>私の場合は、書店に予約したんです。これが確実入手ですね。
↑
仰せの通りですね。私も書店のねぇさんに言われてしまいました。でも、予約って私の性に合わないんです(苦笑)。見つけたときに買いたいじゃないですか(焦)。
>こういう写真が、少しずつでも発掘されるといいなぁと心から思います。
↑
個人がひっそり所蔵というのは多いように思います。あるいは趣味で持っていたものがそのまま主の死と共に文字通り死蔵されたままであるとか、処分されてしまうとか。なかなか難しいものであると思いますが…。
投稿情報: XWIN II | 2010/09/22 07:39
>個人がひっそり所蔵
はい。そういうケースが多いと思います。実は三間通りに面する旗の台駅広場にあった、「玉き(七が三つの漢字。すみません。変換できません・泣)座」の写真。三間通りのお米屋さんがお持ち、ということは判明していて、ぜひ見せていただきたいとお願いしているのですが、亡きご母堂様所蔵のもので、写真が家の中にあるのは確かだが、どこにあるかわからないと言われたままで数年過ぎております。残念です。
もう一つは、戦災です。我が実家は焼けませんでしたが、我が実家から洗足駅方向は、大方焼けてしまいました。お屋敷町であり、残っていれば、当時のステキな写真がいっぱいあっただろうに……(当時、写真も高かったので、贅沢品であり、一般庶民は何か特別のイベントがないと、写真は写しませんでした)
投稿情報: りっこ | 2010/09/22 09:16
写真と空襲
戦時色が濃くなるにつれてフィルム自体も入手が段々困難と成りました.もう一つの問題は防空壕に避難させても湿気で劣化してしまいます。また水洗いが不十分であると変色します。残っている写真は本当に貴重な歴史の証人ですね。実は我が家も空襲に遭って写真類を焼いてしまいましたが、友人が幸い九品仏に遠足に行った時の写真を持っていることが分かっているのですが、何処にしまったのか忘れたということですが、悲しい現実ですがこれもまた新たな問題です。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/09/22 22:05
雪が谷大塚
WIKIPEDIAによれば駅名の変更が昭和18年12月で都立大前への変更と同時になっています。検証が足りませんね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/09/23 14:36
木造院電車両マニア様
遠足に行かれたときのお写真、見つかるといいですね。最近は技術の進歩により、昔の写真をきれいに焼き増しすることも、拡大することも、色をつけることも可能になりました。
私も先日、ガラス板のネガを写真屋に持ち込んで驚かれました。昭和4年のものです。
このガラス板のネガなら、防空壕に入れても大丈夫だったですかね??
お写真が見つかること、心よりお祈り申し上げます。
投稿情報: りっこ | 2010/09/23 20:31
雪が谷大塚駅
東急エージェンシー発行の街と駅80年の情景という本によれば昭和18年に雪谷から雪が谷大塚に変更されたと記されていますが、東急が発行したものですのでよりAUHTENTIC?だと思いますが、昭和8年説の出典が知りたいですね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/09/24 19:11
コメントありがとうございます。
雪ヶ谷大塚駅への改名時期は、大きく分けて昭和8年説と昭和18年説の二つがありますが、鉄道ファン系の書籍でも見事に真っ二つにわかれています。正史というべき、東京急行50年史では昭和8年、東京横浜電鉄沿革史では昭和18年発行でありながら雪ヶ谷のままで改名記載は無し。正史の記述がわかれていては、このような結果となるのも致し方ないかと。
そして、肝心の根拠はどちらからも見えない。しかし、確実なのは同時代資料に昭和10年代中盤までは改名事実が見えないと言うこと。そうなると…と推測すると昭和8年説は消えるんですが、仰せの通り出典、いや根拠が知りたいところです。
投稿情報: XWIN II | 2010/09/29 07:10
昭和17年の統制地図社には単に雪谷となっています。交通地図にも雪谷となっていますので、多分青山師範や府立高等の変更の年の昭和18年が正しいと思われますが、前者は変更の根拠が明確ですが、雪が谷大塚は不明です。天明様あたりのご提言があったのでしょうか。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/11/03 19:29