かつて、江戸に向かう街道は、意図的に橋をかけずに渡し舟を必要としていた。多摩川をわたる中原街道(大山街道)の渡し場を「丸子の渡し」といい、昭和9年(1934年)になって新道と共に丸子橋が架橋されるまでは、まさに主要交通の一翼を担っていたとして問題ないだろう。その丸子の渡しも、丸子橋ができてからは主要交通から外れたこともあって、まもなく廃止となった。
で、今回はこの丸子の渡し跡を見に行くという趣向である。まずは場所の確認、ゼンリンの電子地図ではここに位置する。住所は、東京都大田区田園調布本町32番地先になる。なお、丸子の渡しが現役だった頃、昭和4年(1929年)の1万分の1地形図を頼りに現在の地図と比較してみると、沼部駅から丸子の渡し(地図上では「丸子渡」)まで道路パターンなどがほとんど変わっていないことに気付くだろう。
というわけで、最寄り駅となる東急多摩川線沼部駅から出発。駅から旧中原街道まで若干の距離があるが、これは昔のままである。目黒蒲田電鉄(現 東京急行電鉄)が最初に開業したのが、目黒駅~丸子駅(現 沼部駅)であり、ここまで一区切りとしたのは、交通結節点である中原街道と丸子の渡しを意識したものであるのは言うまでもない。丸子という駅名も、所在地である東京府荏原郡調布村大字下沼部からではなく、丸子の渡しに由来していることからも明らかだろう。
で、沼部駅(多摩川駅方面)。何だかヘンな色の壁面があるが、東急多摩川線の駅にはヘンなものが多いようである。駅から出て、旧中原街道を左(西)に進む。
すぐに堤防が見え、京浜河川事務所田園調布出張所の脇にある堤防を越える階段まで進む。この堤防を超える場所は、丸子の渡しが健在だった頃と変わらない場所にある。
階段そのものは整備され、新しい。スロープと呼ぶには傾斜が厳しいが、それっぽい形のものが階段右にある。これを越えれば、眼下に多摩川と河川敷が広がる。
堤防を越え、河川敷を進みつつ元来た堤防を振り返ってみると、このように見える。下りる側の階段も整備されているが、その先のかつての道は昔ながらの通路(草の生えていない所)がそのまま残っている。これを進んでいくと、
このような案内板がある。これによると「大田区文化財」のようである。その割にはこの看板以外、何も整備されているようなものはなさそうに見えた。さらにこれから川の方に進んでいくと、
川の手前に到着。柵はあるが、人の通行を抑止するものではなく、自動車向けのようである。ちなみにかつての丸子の渡しまでに通じていた道は、上写真に見られるように整備されてしまっており、跡形も残っていない。途中までは残っているのだが、無理矢理整備した結果、消し去ってしまったのだろう。この柵から先に進めば、
ようやく川の水面にたどり着く。釣りをしている人のいるあたりが、かつての丸子の渡し跡(東京側)。向こうに見える橋は二代目となる丸子橋である。というわけで、かつての丸子の渡しまでの道のりを追いつつ、今回はここまで。
小学校に上がる前の年に祖父に連れられて渡し船に乗りましたが、小型トラックが船に乗っているのにびっくりしたことを記憶しています。当時は500キロ級の貨物自動車が多数ありましたので何とかなったのでしょう。当時の中原街道は物流の重要なルートでした。たしか桜坂をバスで下ったような気がしますが確信がありません。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/06/22 20:29