Internet上で情報サイトと称されるものは、それこそ膨大な数をあげることができるが、それらに対するユーザ側の信頼性とはどういう状況下で判断されるのだろう。自分自身の利用実績や信用できる人(機関等)の意見、信用できるであろう者からの提供、等々、それこそ情報サイトの数ほどではないにしても、それなりの方法論は各自にお持ちのことだろう。
そういう中、一つの判断指標としていわゆる「公式ページ(Webサイト)」というものがあり、例えばA社の情報を得ようとする場合、A社の公式ページを参照することは大いにあるはずである(鵜呑みするかどうかは別にして)。
よって、公式ページの責任は重大である。もちろん、致命的に誤った情報を掲載してしまえば信用失墜行為にしかならないので、意図的に誤った情報を載せることはないだろうし、またそうならないような努力・工夫を行っていることも当然のことだろう。
さて、ここまで話を進めてきて今回のタイトルを眺めてみれば、もうおわかりだろう。東京急行電鉄の公式ページではないが、準公式ページ(造語)といっていい東急沿線情報サイト「とくらく」の駅名由来がヘンなのである。準公式と認定する理由は、東急電鉄の公式ページからアイコン(バナー)表示のみの断りだけでページリンクされているからで、気がつかない方であれば「とくらく」のWebページも東急電鉄公式のWebサイトだと誤認しかねないからである(なお、とくらくそのものは東急電鉄の提供[作成主体ではないよう]だが、意味合いは異なると考える。作者が同じでも意味合いの異なるページ[サイト]はいくらでもある)。
では、細かい誤りを抜きにして(とはいいつつも、ご覧になっている方からすれば十分に細かいというご指摘をいただいても文句は言えない)、私が致命的と思うところのみをご紹介しよう(2010年5月25日 日本時間午前6時現在)。
東急池上線 荏原中延駅
荏原郡の中延であることから、駅名は荏原中延となった。
正しくは、荏原郡ではなく「荏原町」の大字中延からである。荏原郡、といっても誤りではないように思うが、当時は平塚町から荏原町に改名したばかりで積極的に新町名をアピールする時代であった。ライバルの目黒蒲田電鉄大井町線でも同時期に荏原町駅が誕生している(直前まで法蓮寺前駅を予定としていた)。
東急池上線 雪が谷大塚駅
開通時の駅名は『雪ケ谷』。昭和8年に『調布大塚』と合併し、『雪ケ谷大塚』となる。昭和41年『雪が谷大塚』と改称。雪ケ谷は、雪ケ谷太田新六郎という郷士に、大塚は鵜ノ木村の小名、大塚にちなんでいるようである。
昭和8年(1933年)合併同時改名説を採用するように、これは誤り。そして、大塚の由来については「ようである」という自信のながげな書き方だが、これは正当(調布大塚駅開設時の駅の場所は、東京府荏原郡調布村大字鵜ノ木字大塚)。
東急池上線 千鳥町駅
当初の駅名は『慶大グランド前』、昭和11年に『千鳥町』と改称された。昭和7年に東調布町から分かれて生まれた地名である『千鳥』に由来している。
当Blogにこれも何度も取り上げているように、正しくは「慶大グラウンド前」。また、東調布町から分かれて~という件は、地方自治体の市町村と市町村に属する町・大字と混同したもので、由来解釈以前の誤り。
東急池上線 蓮沼駅
地名である『蓮沼村』に由来するが、この地名は文字どおり蓮が多く生えた沼が存在していたところから生じた。
当駅では、駅名としての由来のほかに駅名となった地名等の由来を説明しているが、他の駅では駅名の由来を記していないものが多い。で、誤りはというと蓮沼村に由来ではなく、荏原郡矢口村大字蓮沼に由来となる。
東急目黒線 大岡山駅
昭和7年に『大岡山町』が誕生。その地名を用いて駅名がつけられた。それ以前は衾村の小字名で、地形から生じた名前であった。
昭和7年(1932年)、荏原郡碑衾町が東京市目黒区になった際、誕生した新町名は「大岡山」(町は付かない)。また、駅の開設は大正時代であるので、新町名を駅名とする説明は妥当ではない。また、「それ以前」の「それ」がどこを指すかにもよるが(通常、この書き方であれば昭和7年直前であろう)、衾村の小字名とするよりは荏原郡碑衾町大字衾の小字名とした方がいいだろう。
東急東横線 自由が丘駅
開通時の駅名は『九品仏』。これは、近くにある浄真寺を開いた珂碵上人らが彫り上げた9体の阿弥陀如来像に由来しているようである。その後昭和2年に開校した自由ケ丘学園にちなんで地名が自由ケ丘に変更されたため、駅名も昭和4年に『自由ケ丘』と改称。住居表示の変更に伴い、昭和41年に『自由が丘』と改称された。
これも当Blogで再三指摘しているとおり、自由ヶ丘の由来順が誤り。正しくは「学校名→駅名→町(大字)名」の順であり、地名の変更は最も後である。さらに自由ヶ丘→自由が丘の表記変更も、住居表示の変更と言うよりは東急電鉄の表記ルールを変更したと言うべきだろう(雪ヶ谷大塚→雪が谷大塚等が同時期に実施。当時は雪谷大塚町はなく、住居表示上も雪が谷という表記ではない)。
東急大井町線 荏原町駅
約700年前このあたりの領主であった荏原左衛門尉義宗の姓が地名に名残りをとどめている。駅名はこの地名から名付けられた。
荏原の名が「延喜式」に載っていることを知らないとしか思えないほど低レベルな誤り。荏原の名は、千年以上も前からの地名である。荏原町駅の由来は、先にもふれたように荏原郡平塚町が荏原町に改称したことキッカケとし、町の中心地たる印象づけによるもの。
東急大井町線 北千束駅
昭和3年の新設当初の駅名は『池月』、その後昭和5年に『洗足公園』、昭和11年に『北千束』と改称。『池月』は、沿線住民の要望により新設されたが、その由来は不明。『北千束』は古くからの地名である。
池月の由来が不明、というのは地元の方がご覧になったらお怒りになるのでは?と心配してしまう。池月は、宇治川の合戦に出てくる名馬「池月」に由来。また、表記上の問題として「千束」は古くからの地名であるが、「北千束」は昭和に入ってからの荏原郡馬込町の大字名として出てきたのが最初である。
東急大井町線 緑が丘駅
開通時の駅名は『中丸山』。これは奥沢の小名、中丸山に由来している。中丸というのは城の本丸のこと。その後、町名改正に伴って昭和8年に『緑ケ丘』と改称。昭和41年に『緑が丘』となった。
奥沢の小名、ではなく駅北側の高台(小山)の名に由来する。
──と、ここまで書いてきて(というか正確には書く途中から)、この駅名の由来はどこかで読んだことがあるという既視感を強く感じた。それは、「東京急行電鉄50年史」である。どうやら、この「とくらく」というWebサイト(ページ)は、40年近く前に出版された情報を無批判に丸写ししただけだということがわかった。無論、すべてがそうではないと思うが(全部を見ていないので確信を持てないだけ)、最近できた駅(といっても50年史が出た後の駅)については多くが未記載となっていることから、この疑いを強く抱くに十分だというわけである。なるほど、駅名の由来に誤りが多いのも、出典が「東京急行電鉄50年史」であれば自明である。
とはいえ、ちょっと前の私も含めて、公式資料、第一次資料に限りなく近い「東京急行電鉄50年史」が誤りだらけであるなど、普通はおよびもつかないことである。おそらく、この「とくらく」に駅名の由来を書いた人も、信用できる資料として「東京急行電鉄50年史」を採用したに違いない。
それにしても、公式と言うべき情報が誤ったまま繰り返し再生産されている現状をどう考えるか。それだけ公式資料というものは責任重大だということを再認識させてくれるほかに、無批判でそれが繰り返し流布され、大勢を占めることで「正しい」情報とされてしまうことの重大性も確認できるだろう。以前、当Blogコメント欄に、誤りを糺すよう版元等に知らせた方がいいのではというご意見を賜ったりもしたが、そこまで「してあげる」ものでもない時代である。ただ、「定説」というものは、このようにして作られていくものなのかと実感するだけで、私としては十分なのである。
といったところで、今回はここまで。
雪ヶ谷大塚になったのは、昭和15年よりも後です。私は15年には住んでいましたが、まだ「雪ヶ谷」でした。昭和18年頃だったと思います。まだ、桐ヶ谷という駅もありました。
投稿情報: S.TSUCHIYA | 2012/11/23 16:14