前回(後編2)の続きです。
第九期 待望の五反田延長開業まで
- 昭和3年(1928年)1月18日 大崎広小路、五反田間工事着手届
- 昭和3年(1928年)2月2日 土工用軌道平面交叉期限延期の件
- 昭和3年(1928年)2月28日 大崎広小路、五反田間電気に関する実施設計の件
- 昭和3年(1928年)3月1日 電気事業経営許可通牒
- 昭和3年(1928年)3月5日 嶺変電所工事方法変更の件
- 昭和3年(1928年)3月6日 旗ヶ岡停車場渉線位置変更の件
- 昭和3年(1928年)3月13日 大崎広小路、五反田間工事方法変更の件
- 昭和3年(1928年)3月19日 自動閉塞信号装置使用開始の件
- 昭和3年(1928年)3月19日 調布大塚停車場自動信号装置変更の件
- 昭和3年(1928年)4月4日 自動閉塞信号装置使用開始届
- 昭和3年(1928年)4月10日 工事方法変更の件
- 昭和3年(1928年)4月16日 工事方法変更の件
- 昭和3年(1928年)4月23日 五反田仮停車場設置並特殊設計の件
- 昭和3年(1928年)4月30日 工事方法変更の件
- 昭和3年(1928年)5月1日 池上町、玉川村間起業目論見書記載事項変更の件
- 昭和3年(1928年)5月8日 大崎広小路、五反田間自動閉塞信号装置の件
- 昭和3年(1928年)5月10日 橋梁工事方法変更の件
- 昭和3年(1928年)5月16日 大森起点3哩66鎖9節3、4哩3鎖間工事方法変更の件
- 昭和3年(1928年)5月28日 嶺変電所工事竣功の件
- 昭和3年(1928年)6月15日 大崎広小路、五反田間旅客運輸営業開始の件
- 昭和3年(1928年)6月15日 工事方法変更の件
前年からの五反田までの延長工事は、この年に入っても難工事が続いていた。同時代資料である大崎町誌などに、狭隘な場所に鉄橋を立ち上げていく難工事の様子が語られたりしているほどなので、わずか300メートルほどの工事区間でありながら半年近くかかっていたのも頷ける。そして、昭和3年(1928年)6月17日に、ついに五反田駅までの延長開業を迎えることになるのだが、文書上では五反田延長工事の件は昨年よりも減っており、設備更新関係(自動閉塞信号装置の採用や駅設備、変電所の強化等)が目立つようになっている。これは、五反田駅への乗り入れによって電車の増発が想定され、各種設備の強化が求められたからだろう。
この他に注目は、いわゆる新奥沢線(今後、このシリーズでは奥沢線と称することにする)の件で「池上町、玉川村間起業目論見書記載事項変更の件」とある文書。遠大な国分寺までの路線であったが、目黒蒲田電鉄のテリトリーである田園調布への進出が用地買収の困難を見せただけでなく、昭和2年(1927年)12月27日には二子玉川線の免許を速攻で取得し、国分寺までの延長線敷設も困難な様相を見せ始めていた。しかし、捨てる神あれば拾う神あり。玉川村の諏訪分地区(大字等々力字諏訪分)では、隣接する奥沢地区(目蒲線奥沢駅)及び田園調布地区(目蒲線田園調布駅)、さらには雪ヶ谷地区(池上線雪ヶ谷駅)に相次いで鉄道が開通したことで、住宅地としての需要が一気に盛り上がっていたが、道路が農道ばかりでまったく整備されていなかった。玉川全円耕地整理組合ができていたものの、反対者も多くまったく耕地整理が進む状況になかったので、分離独立してでも耕地整理をやるべきだという意見もあった。これを見た池上電気鉄道は、諏訪分地区の耕地整理に協力する形で一気に線路用地の獲得に成功し、雪ヶ谷から田園調布への計画路線を変更し、諏訪分地区(現在の世田谷区東玉川地区)を通過するようになったのである。このあたりの様子を玉川全円耕地整理組合が耕地整理完成記念に出版した「郷土開発」という文献よりご紹介しよう。
山口正光氏 談。
「私は大正十三年頃東玉川に越してきたんですが、その頃地元の人達は電車が敷けたので土地はどんどん借りに来る。しかし道路が出来ていないので貸して良いのか悪いのか判らなくて困るというので、非常にせいていたのです。その上地主の半分以上は田園調布の人だったので早くやろうという気運が非常に強かったのです。この頃は全円一本でやることになったと記憶しているんですが、諏訪分区だけでやれば出来るものを、一本にやろうとするから中々ことが運ばないのだ、とにかく工区を別にしてくれという声が大きかったんですよ。そこへ運よく池上電車が支線を敷く計画があったので、それでその電車敷地を組合地にとって、池上電車にあの当時五万何円かで売り渡して、最初に金を握ったから仕事がやりよかったんです。そして新奥沢の駅が出来て一変した住宅地となり、東玉川と改名した。諏訪分区がよくなったというので、奥沢東、西区もやらざるを得なくなった。諏訪分区は金に困らず楽に仕事が出来たんです。」(「郷土開発」15ページより。)
このように、池上電気鉄道は耕地整理組合(諏訪分工区)とうまく話をつけて一気に線路用地を確保することに成功した。この成功は、おそらく目黒蒲田電鉄専務五島慶太氏は予想外のことだったと思われる。というのは、既に目黒蒲田電鉄は玉川全円耕地整理組合の組合長らと話をつけてあり、組合には非公式に数万円前渡し金を手渡していたので、まさか池上電気鉄道が玉川全円耕地整理組合の一角である諏訪分工区からの土地買収に成功するとは!という思いだったに違いない(事情は山口氏の談話にあるとおり)。これを受けて、目黒蒲田電鉄は奥沢西工区(新奥沢駅のすぐ北側)と交渉し、新奥沢駅から先の計画路線を完全につぶすと同時に二子玉川線の線路用地を買収した。
池上電気鉄道は、のどから手が出るほど欲しかった鉄道用地、一方の諏訪分工区は先行してでも耕地整理を行いたいが先立つもの(現金)がなかった。この両者の思惑が一致して、互いに棚からぼた餅のような形で実現した奥沢線だったが、結果的に10年持たずに消滅。一方の諏訪分工区は以下のような流れで、比較的短期間で耕地整理事業を完了した。
- 昭和3年(1928年)6月1日 諏訪分工区工事着手(契約工事費 11,586円77銭)
- 昭和3年(1928年)8月14日 池上電鉄に対し、鉄道線路工事設計変更の件を承認
- 昭和6年(1931年)10月31日 諏訪分区工事完了
- 昭和9年(1934年)6月14日 諏訪分区換地処分許可申請
- 昭和9年(1934年)8月28日 諏訪分区換地処分認可
- 昭和9年(1934年)11月5日 諏訪分区賃貸価格配賦認可
- 昭和9年(1934年)12月20日 諏訪分区耕地整理登記完了
しかし悲しいかな、登記完了した時には、その大いなるきっかけを与えてくれた池上電気鉄道は既にこの世から消えて無くなっていた。昭和9年(1934年)10月1日に目黒蒲田電鉄に吸収合併されたためである。と、一気に話を先に持って行ってしまったが、五反田延長開業の後は奥沢線開業までを見ていこう。
第十期 奥沢線開業まで
- 昭和3年(1928年)6月21日 雪ヶ谷停留場を停車場に変更の件
- 昭和3年(1928年)7月3日 大崎広小路仮停車場を停留場に変更の件
- 昭和3年(1928年)7月24日 大森、池上間工程表提出の件
- 昭和3年(1928年)7月27日 電気事業経営許可通牒
- 昭和3年(1928年)8月6日 線路変更届却下願廃棄の件
- 昭和3年(1928年)8月13日 土工用軌道平面交叉期限延期の件
- 昭和3年(1928年)8月24日 蒲田終点附近仮線使用期限延期の件
- 昭和3年(1928年)9月3日 雪ヶ谷起点、同1哩1鎖50節間工事施行の件
- 昭和3年(1928年)9月4日 雪ヶ谷起点、同1哩1鎖50節間工事着手届
- 昭和3年(1928年)9月17日 雪ヶ谷起点、同34鎖間仮線敷設の件
- 昭和3年(1928年)10月4日 雪ヶ谷、新奥沢間旅客運輸営業開始の件
先に奥沢線の用地買収に「棚からぼた餅」的な話をご紹介したが、工事施工から開業までわずかに1か月程度で完了していることが確認できる。ほとんど平坦であるので、工事で苦労する点はないに等しいが、池上電気鉄道最初の蒲田~池上間の開通までに費やした時間を思い起こすと隔世の感がある。いくら資金力に違いがあるからといっても、あれから10年も経っていないのだ。こんな印象を抱きつつ、今回はここまで。予定では、あと2~3回でこのシリーズは完結する予定です。
気候が暖かくなったら竹橋の国立公文書館に出かけてゆっくり資料を見てみたいと思いますが,図面や地図や自動信号機の詳細を知りたいと思っています。また池上と雪谷の間の単線開通の時に一部の地図によるとやや現在とルートが異なり,終点が現在のアルプス電気の裏から崖線まで伸びており,駅の名前が雪のさととなっていますのでその点も調べてみたいと思います。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2009/12/29 11:29
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
池上電気鉄道に関する文献等は、多くが東急電鉄系の社史をなぞるだけのものが多いので、それら伝説(神話)をどう史料(資料)から探し出すかというのが重要です。
どういう成果が出てくるのか。私も楽しみにしております。
投稿情報: XWIN II | 2010/01/04 07:29