前回(その7)の続きです。
前回は昭和8年(1933年)時点の空撮写真を見て、地図情報よりも空撮写真が優れていることを記した。しかし、地図情報の方が優れているものもある。それはわかりやすさである。だが、わかりやすいが故に誤解や勘違いを生ずることが多いことは、心にとどめておく必要がある。また、地図情報は最初に作成されたとき以外は、すべて情報の追加(削除も広い意味では追加)となる。この追加が厄介で、空撮写真のようにすべてが同じタイミングで情報が更新される保証がなく、加えて更新情報も同じ時期に実施されているとは限らないものが掲載されることも珍しくない。国土地理院(前身の陸地測量部も含む)の地図も初版は別にして、2版以降は一部情報のみの更新しか行っていないと断っているものもあるが、そうでないものも気をつけて扱わなければならない。
その最たるものが、戦後まもなく発行された地図である。これらの多くは、戦前の地図情報をほとんどそのまま流用し、必要最低限の部分のみ修正して発行している。例えば東京の場合、昭和18年(1943年)10月より東京府及び東京市から東京都に、昭和22~23年(1947~48年)には東京35区が22区を経て現在の23区に変わったが、戦後間もなくの地図はこういった情報のみを改変(東京府→東京都、荏原区→品川区など)しているだけで、道路情報や市街地情報等は戦前の情報のまま(それも昭和10年(1935年)前後の状態)となっているのである。つまり、地図の発行年が昭和22年(1947年)だからといって、地図情報が本当にその年代という保証はない。もっと言えば、まったく異なっているところも多いのだ。
以上の議論を前提として、旗ヶ岡駅並びに東洗足駅周辺の地図(一部)をご覧いただこう。
これは昭和22年(1947年)9月に日本地形社によって印刷、発行された3,000分の1の地形図である。察しのいい方は、これが戦前の都市計画用地図そのものだと気付くだろうが、実際そのとおりで、この一部抜粋だけだとわかりにくいが、全体を見ればきれいに線が描かれているところと、あからさまに汚い手書き部分(上地図でいうと中原街道が拡幅されているあたり)、要はそこが改変部分がはっきりと区別できる。
この地図の摩訶不思議な所を列挙すると、
- 「伊藤邸」とある部分は、昭和16年(1941年)には香蘭女学校が移転している。
- 新中原街道(旧道を拡幅したのではなくまったく新規に作られた道路)の屈曲部北側に「医専用地」とあるが、ここには昭和13年(1938年)に外来診療棟が建設されている。だが、外来診療棟ができた時には、まだ新中原街道はできていなかった。
- 「旗ヶ岡分譲地」とある部分は、昭和10年(1935年)には既に分譲を終えていて、戦前までには住宅が建設されていた。ここは、米軍の空襲でもほとんど罹災に遭わなかったところでもある(地図表記上は白ではなく、斜め線となる)。逆に空襲で家がなくなっている部分でありながら、市街地表記となっている所がある。
というように、この地図には複数の時代が前後入り乱れて表記されているのである。もっとも、戦後間もなくの時代では、このような地図でもあるだけましだったのかもしれないが…。ただ、現代の人にとっては、これを昭和22年(1947年)はこうだったと思わせてしまうのは罪作りと言えなくもない。
では、ここで前回にも示した昭和8年(1933年)の空撮写真を見てみよう。先の地図と見比べると、市街地の様子はほぼこの時代だと予想がつくだろう。
どうだろうか。地図と違って空撮写真は白い部分が建物で、黒い部分が農地だったり空地だったり要は市街地でない部分である。完全ではないが、ほぼ一致していることからすると、昭和22年(1947年)とうたってはいるが、実際のベース情報は昭和10年(1935年)前後のものに、いくつか情報が追加され、さらに戦後の情報が手書きで汚く追加されたとなるだろう。つまり、この地図情報を時代資料として鵜呑みすることは厳禁である、と結論付けるのである。
とはいえ、まったくのでたらめでないわけで、旗ヶ岡駅の構造などは大変参考になる。駅から旧中原街道に接続する道路の中心線に旗ヶ岡駅の中心が位置していないことが確認できるだけでなく、駅本屋も外れたところにあるように書かれている。これは、3,000分の1という縮尺のなせる業であり、そういう意味からは意義のある資料だとなる。ただ、繰り返すが、この地図情報をそのままこの時代のものだと鵜呑みすることはできない。その時代に生きていない人にとっては、資料とは常にそういう可能性があると肝に銘じて扱うべきものだ、と理解する好資料だとまとめておこう。
おはようございます
今回のお話しも大変興味深く、読ませていただきました。
中でも上記地図に「サイカチ樹」の位置が、明記されているところ。これは感激いたしました。
この木が、「あった」という記事はこれまで何度か目にいたしましたが、実際に「ここにあった」と記されているものを初めて見ることができました。
ありがとうございます
で、話はちょっと変わるのですが、昨日「回想の東京急行 Ⅰ」をぼんやり読んでおりましたら、126ページの「池上線」「旗ノ台」と表示されていることにびっくり。
しかも、ご丁寧に
昭和26年 旗ノ台駅として開設
昭和41年 旗の台駅に改称
なんて書いてあるんです。
私の記憶にある限り、「はたのだい」駅は、ずっと「旗の台駅」であり、「旗ノ台駅」だったことがなかったので、非常に違和感がありました。
で、「回想の東京急行 Ⅱ」で、大井町線のところを見たら、こちらは昭和26年から「旗の台」という表示。
しかも、そこに昭和36年の池上線の開札口等、3か所の写真が写っていて、どれも皆表示が「旗の台駅」と、ありました。
これはあんまりにもあんまりな間違いではないかと思いましたよ。
駅名は、正確であってほしい。「慶應グラウンド駅」しかりですよね。
投稿情報: りっこ | 2009/12/10 08:47
りっこ様、コメントありがとうございます。
「サイカチ樹」の場所、見にくいですが昭和8年の空撮写真でも大きな木があるように見えなくもないかな…と。どちらにしても参考になってよかったです。
そして「回想の東京急行I」。いい本なんですが、ご指摘の部分も含めて筆者の推測と断っているところも含め、どうも鉄道以外の記述が弱いんです。鉄道ファン向けの本に期待をするなってところかもしれませんが、どうにもこうにも…。そして、鉄道会社の社史を絶対的に信奉してしまっているのも。
あの「旗ノ台」の勘違いは、東急の歴史において「カタカナ」表記の駅名を「ひらがな」表記に一斉に変えたのが昭和41年1月20日。自由ヶ丘→自由が丘、溝ノ口→溝の口、雪ヶ谷大塚→雪が谷大塚などなど(田園都市線はまだ未開通)で、これに誤って旗の台を加えてしまったという単純ミス。知っていれば間違いようがないのですが、知らなかった上に他の情報を鵜呑みしたというものかと。
旗の台の駅名は、公式資料上は東急社員からの公募で決まったとされていますが、昭和26年でのひらがな表記採用は、戦後の時代を感じさせるものかなと思います。旗の台の名自体は、荏原郡平塚村大字中延の字であった「旗ノ台」ですが、その地に開校した旗台小学校によって一気に知名(地名)度があがり、それで採用されたのかな、とも思いますね。
投稿情報: XWIN II | 2009/12/10 22:00
サイカチの木の根元に井戸がありそこから丸子方面の昇り坂がサイカチ坂と呼ばれ、当時の馬方にとって難所の一つでした。四ヒャく荘の隣の洗足幼稚園は私の妹と弟が通園した所です。昭和8年の航空写真でも旗が岡駅前の広場が写っておりますが、偶然にも小学校に入学したその年にこの駅前広場に集合してこの駅から運動会が開催された慶大グラウンド駅に向けて乗車したことを思い出しました。駅の近所の友人の家の屋根も写っております。貴重な写真有り難うございます。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2009/12/22 23:54
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
大変貴重なお話しをありがとうございます。考えてみれば、池上電気鉄道の駅でこれだけの駅前広場が設けられた例は、池上駅を除けばほとんどないような印象を受けます。このあたりの理由についても調べてみたいものです。
さて、洗足幼稚園のお話しをいただいたことで、年内には旗ヶ岡駅周辺関連記事にて採り上げてみよう、という勢いがつきました。重ねて貴重なお話しをいただけたことに感謝申し上げます。
投稿情報: XWIN II | 2009/12/24 07:32