後編の続き。後編の後、タイトルをどうしようかと考えた挙げ句、安易に後編に2をくっつけてみた。こうすれば、次も考えることなく後編3、後編4と続けていくことができるという安易だが、応用の利く選択(苦笑)。というわけで能書きはこの辺にして続きを始めよう。
第七期 第三期線「雪ヶ谷~桐ヶ谷」開通まで
- 昭和2年(1927年)7月30日 石川停留場新設の件
- 昭和2年(1927年)7月30日 停車場、停留場建造物及配線変更の件
- 昭和2年(1927年)7月30日 蓮沼停留場に便所設置の件
- 昭和2年(1927年)8月11日 雪ヶ谷停車場を停留場に変更の件
- 昭和2年(1927年)8月11日 光明寺停留場廃止の件
- 昭和2年(1927年)8月11日 兼業経営の件
- 昭和2年(1927年)8月15日 戸越銀座停留場建造物変更届の件
- 昭和2年(1927年)8月17日 電気事業経営許可通牒
- 昭和2年(1927年)8月19日 調布大塚停車場新設の件
- 昭和2年(1927年)8月19日 長原停車場を停留場に変更の件
- 昭和2年(1927年)8月19日 勾配変更の件
- 昭和2年(1927年)8月20日 桐ヶ谷仮停車場建造物配置変更の件
- 昭和2年(1927年)8月22日 跨線橋変更及新設の件
- 昭和2年(1927年)8月23日 跨線橋仮設の件
- 昭和2年(1927年)8月25日 仮線使用期限延期の件
- 昭和2年(1927年)8月26日 桐ヶ谷停留場を仮停車場に変更の件
- 昭和2年(1927年)8月26日 線路短縮の件
- 昭和2年(1927年)8月27日 溝橋新設の件
- 昭和2年(1927年)8月27日 蒲田終点仮線使用期限延期の件
- 昭和2年(1927年)8月27日 雪ヶ谷、桐ヶ谷間旅客運輸営業開始の件
第六期としたのもわずか5か月程度だったが、こちらはさらに短くわずかに1か月。この間にこれだけの注目すべき文書が出ているのには、もちろん理由がある。もともと第三期線とは、雪ヶ谷から五反田までのもので、部分開業を繰り返すよりは五反田駅まで一気に開通させた方が営業上はもちろん、収益という点からも省線(現JR)山手線に接続させた方がいいに決まっている。だが、第六期中にも工事延期の件が入っていたように、第三期線の工事には大きな変更が生じていた。それは五反田駅における省線との接続方法である。
当初計画では、五反田駅は池上線の始点(終点)であり、駅も目黒川を越えた辺りの平地に設置予定だった。現在、山手線の五反田駅付近は築堤を築いて高架に位置しているが、この築堤の脇、山手線から見て下に接続するようになっていた。よって、今は高架となっている大崎広小路駅も、広小路(現山手通りの一部)とは平面交差で計画されており、桐ヶ谷付近まで谷底を縫うように線路を敷設するようになっていた。つまり、桐ヶ谷から先、多額の工事費のかかる構造物は目黒川を越える鉄橋くらいしかなかったのである。
しかし五反田から先、白金方面への延長計画を持ってしまったことで、この計画は大きく変更されることになる。五反田から先へ延長するには方法は二つ。一つは山手線の下をくぐる、もう一つは山手線を乗り越える。選択肢は二つあったが、山手線をくぐるという方法は東京市電(路面電車)との折り合いがつかずに頓挫し、山手線の高架線の上を越えるという、とんでもなく工事費がかかる方法を選択せざるを得なくなった(結果論ではあるが、白金への延長計画を諦めるという方法を採ることができれば、昭和9年という早い時期に池上電気鉄道が消えることはなかったろう)。このことから、桐ヶ谷から五反田までの計画路線は、谷底をわずかに避けるように変更され、多少なりとも高架線となる区間を減らす努力は見せたが、大崎広小路~五反田の高架部分は用地買収の関係から線形が厳しいものとなってしまい、今でも大幅な速度制限が課せられている。この工事変更がらみの文書は、今後も登場することになるので注意してご覧いただきたい。
さて、それ以外の注目点は、というと相変わらず仮設備の延期関係が目立つ。文書を確認してみないと何ともいえないが、暫定的に終点となる桐ヶ谷駅に関しても、8月28日開業直前に「桐ヶ谷仮停車場建造物配置変更の件」「桐ヶ谷停留場を仮停車場に変更の件」と2件もあって、この土壇場にいったい何があったのだろうか興味深い。そして、新駅関連の文書が2件。「石川停留場新設の件」と「調布大塚停車場新設の件」だが、それぞれ性格が異なるものである。
石川駅(停留所)は、現在の石川台駅のことで、雪ヶ谷~桐ヶ谷間が8月28日に延長開業した際に設置された。つまり、「石川停留場新設の件」は事前計画になかったものを追加し、延長開業時に他駅(洗足池、長原、旗ヶ岡、荏原中延、戸越銀座、桐ヶ谷)と同時に誕生したものだが、一方の「調布大塚停車場新設の件」は、既設線の御嶽山前~雪ヶ谷間に新設されたもので、こちらは新設(追加)と位置づけることができる。
第八期 大崎広小路~五反田延長工事施工開始まで
- 昭和2年(1927年)8月29日 工事方法変更の件
- 昭和2年(1927年)8月29日 軌道と乗降場との関係変更の件
- 昭和2年(1927年)8月29日 電気工事方法変更の件
- 昭和2年(1927年)8月31日 電気工事方法変更の件
- 昭和2年(1927年)9月13日 工事方法一部変更の件
- 昭和2年(1927年)9月20日 線路勾配変更届の件
- 昭和2年(1927年)9月26日 線路勾配変更の件供覧並大崎広小路停車場仮設の件
- 昭和2年(1927年)9月26日 仮設工事撤去復旧届の件
- 昭和2年(1927年)9月26日 停車場設計及配線変更の件
- 昭和2年(1927年)9月27日 桐ヶ谷仮停車場を停留場に変更の件
- 昭和2年(1927年)10月5日 慶大グラウンド前停車場を停留場に変更の件
- 昭和2年(1927年)10月7日 池上及蒲田停車場仮乗降場設置の件に関する通牒
- 昭和2年(1927年)10月10日 桐ヶ谷、大崎広小路間旅客運輸営業開始の件
- 昭和2年(1927年)10月10日 電気工事方法変更の件
- 昭和2年(1927年)10月11日 工事方法変更の件
- 昭和2年(1927年)11月9日 荏原中延停留場設計変更の件
- 昭和2年(1927年)11月14日 工事方法変更の件
- 昭和2年(1927年)12月16日 調布村地内鉄道敷設免許の件
- 昭和2年(1927年)12月16日 調布、国分寺間鉄道延長線敷設免許の件
- 昭和2年(1927年)12月20日 大崎広小路、五反田間工事施行の件
第八期として区切ったのは、五反田までの延長工事施工開始まで。五反田まで延長開業として区切ってしまうと項目が大変多くなってしまうので、やむなくここで区切ってみた。これでも20項目あるので、もう少し手前で切りたいが、そうすると五反田延長開業までが長くなってしまう等々、自分なりに悩んだ結果なのでご容赦いただきたい。
さて、五反田延長工事開始までも長い長い。線路の勾配も変更せざるを得ないのは当然で、20項目のうち半数近くが五反田までの延長工事に関することで占められている。途中、桐ヶ谷~大崎広小路の開業も入り、五反田駅まであとわずかというところまで来て、次なる池上電気鉄道の野望が見えてくる。それが、昭和2年(1927年)末に出てくる「調布村地内鉄道敷設免許の件」と「調布、国分寺間鉄道延長線敷設免許の件」である。
もちろん、これは今にいういわゆる新奥沢線(この呼称が定着しているようだが、当の池上電気鉄道はこの路線を新奥沢線と呼称していない。当初は国分寺線、実際に開業して以降は奥沢線と呼称した。これが新奥沢線とされたのは、推測するに東急側の思惑=奥沢は池上電気鉄道ではなく目黒蒲田電鉄によると見る)のことだが、注目は「調布村地内~」及び「調布、国分寺間~」と記載されていることである。いわゆる新奥沢線は、雪ヶ谷~諏訪分~新奥沢のわずか3駅だが、当時の町村名でいうと荏原郡池上町大字雪ヶ谷、荏原郡調布村大字鵜ノ木(字大塚。飛地)、荏原郡玉川村大字等々力(字諏訪分。飛地)を通過するので、「調布村地内」と称することに問題はなさそうに見えるが、ここにある荏原郡調布村大字鵜ノ木(字大塚。飛地)とは、現在の大田区雪谷大塚町にほぼあたる所であって、3駅のいずれもが調布村内にない。加えて線路の半分以上が、荏原郡玉川村大字等々力(字諏訪分。飛地)であり、調布村というのも腑に落ちない。それどころか、「調布、国分寺間」という表現は村名と取れないこともないが、駅名である可能性も捨てきれない。
そう、途中まではいわゆる新奥沢線のルートは、開通当時とは異なっていた。起点は雪ヶ谷付近で問題ないが、ルートは新奥沢(奥沢方向)ではなく調布(田園調布)だった。田園調布駅東側に水路跡の窪地があるが、この付近に駅を設置予定とし、そこから調布村と玉川村境を抜けて玉川村等を経由し、国分寺駅まで延長する計画だったのだ。この計画線であれば、大半が調布村内を通過することとなるので、「調布村地内~」という表現で何ら問題ないし、「調布、国分寺間~」という表記も駅として捉えれば、より確実な印象である。もっとも文書を見てみないと確実なことは言えないが、この国分寺線計画を目黒蒲田電鉄及び田園都市株式会社関係者が見れば、せっかく自分たちが分譲した住宅地にただ乗りしてテリトリーを侵す侵入者としかならないだろう。池上線と大井町線の交点に乗換え駅を設置しない、自社の路線図に相手の路線をまったく載せていない(池上には目蒲が載らず、目蒲には池上が載らず)、等々、ことごとく対立する根本は、この計画であったことは疑いないと思うわけである。
と、いったところで続きは次回。
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