航空写真(上空からの都市の写真)を眺めていると、周囲と異なる街区パターンが突然現れるところがあったりするが、多くの場合、それはそうなった理由があるはずである。今回取り上げるのは、東京都品川区中延二丁目3番付近。ゼンリンの地図で示すと、この地点になる。ご覧いただくとおわかりのように、概ね東西・南北に走る道路が主流の街区に、この部分だけ斜めの道路と建物自体も東西・南北軸とは傾いて建てられている。これを航空写真で見れば、よりはっきりこの街区のみが異なっていることが確認できる。
この一角(赤く示した部分)が、周囲の街区よりも特異というよりは、一つの街区の中に特異な区画を包括しているといっていいものだろう。多少でも建築基準法をご存じなら、このエリア内の建築物の多くが不法建築物(接道要件を満たしていない)ではないか?という疑問を持たれるだろうが、実際はともかくこのエリア内の特異性は、この航空写真だけで十分に確認できる。
周囲と異なるこのエリアは、いつからこうなっているのか。まずは、この点から確認してみよう。この周辺は、関東大震災前後に耕地整理(いわゆる区画整理)が成されており、道路パターンは概ね東西・南北に走り、多くが長方形の街区で構成されている。よって、大正後期から昭和初期の状況が把握できる同時代の地図をもって確認するのが適当である。
これは、昭和4年(1929年)時の1万分の1地形図の当該部分を示したものだが、いきなり答えが出ているように(というか本記事のタイトルで既に明らかではあるのだが)「同潤会住宅」と明記されているとおり、ここは同潤会によって作られた住宅地だったのである。街区の中に特異なパターンが見られるのは、同潤会住宅地としての名残(残滓)ということだったのだ。
もう一つ同時期の地図として、東京府荏原郡荏原町(現 東京都品川区の一部)の地図(昭和4年時)を示そう。微妙に細部は異なるが、概ね1万分の1地形図と変わらない。注目は、同心円状の道路が左上の区画のみ見られないことだが、ここは当初は同潤会住宅地の予定であったものを荏原町の人口爆発的な増加によって、急遽、小学校建設の必要が生じ、ここが小学校建設用地(現 中延小学校)となったことで同心円状道路の一部が欠けることとなったのである。また、もう一つの注目は同潤会住宅地の中央を南北に貫く道路が、住宅地内の区間だけやや広くなっていることである。1万分の1地形図では明らかでないが、東京府荏原郡荏原町地図では誇張はされているものの、そういった表記となっているのが確認でき、実際、現在も道路の幅員の違いはそのままとなっている。こういう細かい部分が、地形図とはまた違った発見ができることから、単に地形図だけで昔を語りたくないのである。
さて、昭和4年(1929年)当時と現在の航空写真を比べて見ると、左下の区画以外、つまり右上と右下の区画には同心円状の道路がなくなっていることがわかる。ここにも歴史はある。
ちょっと見にくいかもしれないが、これは昭和23年(1948年)当時の航空写真で、赤く示した部分が現在の同潤会住宅地として残された区画である。そう、昭和20年(1945年)の米軍機による空襲によってこの周辺も被害を受けたが、同潤会住宅地のうちこの区画のみが焼け残ったのである。右上、右下の区画は残念ながらほとんどを焼失(消失)し、戦後になって新たな区画によって建物等が建設されたが、わざわざ非効率な同潤会住宅地の同心円状街路を採用することはなかった。こうして、わずか一角のみに狭隘な道路と周囲の建物配置と異なる区画が誕生(というか残された)したのである。
それにしても、戦前の1万分の1地形図や戦後間もなくの航空写真から明らかなように、同潤会住宅そのものは建物間隔にそれなりの余裕を持って建てられているにもかかわらず、現状のそれは、建物間の空地にも無理矢理建物が建設されているようにも見える。このあたりの理由は推して知るべしかもしれないが、まぁ今回はこの辺で。
こんにちは。
興味深い記事ですね。
物事一つ一つに理由や歴史があるんですね。
投稿情報: 歩き人 | 2013/01/19 13:03