かなり以前からWikipediaについては、様々な話題がある。学生のレポートに使ってはならないとか、社のプレゼンの根拠資料に使うなとか、あるいは名誉棄損がらみの事件などなど。その成り立ちを考えれば、これを「鵜呑み」にすること自体が考えられないことだが、まぁ単に読み物としてなら悪くないだろうし、知識の確認をする(要はどういうものかを知っている)というくらいなら、大変に便利なものである。
だが、ついに当社でもWikipediaの引用による誤った「モノ」を作るという失態を演じた例を出してしまった。作成担当者に確認したところ、Wikipediaを辞書(百科事典)のように扱っていたというのだから驚いてしまった。壁のいたずら書きとは言い過ぎだと思うが、一部のものは間違いなく同レベルかそれ未満である。いちいち具体例をあげるのはきりがないのだが、当Blogでも取り上げたことのある「自由が丘」について、確認してみよう。
問題の個所は「歴史」の部分である。
以下、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「自由が丘」(最終更新 2008年3月28日 (金) 14:09)より一部引用。
自由が丘の名は戦前に起こったもので、自由ヶ丘学園に由来する。自由が丘一帯は、もとは東京府荏原郡衾(ふすま)村字谷畑といった。1927年、この地に手塚岸衛が自由ヶ丘学園を開設した。
この校名は当地の地名として定着し、碑衾町(ひぶすまちょう。旧衾村と碑文谷町が合併)大字自由ヶ丘となり、1932年(昭和7年)の東京市域拡張による目黒区成立時(目黒町と碑衾町が合併)に東京市目黒区自由ヶ丘となったものである。
付近に、東京横浜電鉄九品仏前駅(くほんぶつまえ。現・東急東横線自由が丘駅)があったが、東急大井町線の延伸により九品仏の門前に駅が開設されることになり、この新駅が九品仏駅を名乗ることになったことから、九品仏前駅は、地名より衾駅に改称することとなったが、直前に地名が変更になったため新しい地名を採り「自由ヶ丘駅」と改称した。
1965年(昭和40年)に住居表示が実施され、表記は「自由が丘」となった。翌年1966年(昭和41年)には、駅名も「自由が丘駅」に改称されている。
自由が丘は東急東横線が開通するまでは竹やぶだったが、東急グループが開発をしていった。1970年ごろには町の形がほぼ整ったが、住宅街には木が多く、また、熊野神社に竹やぶの一部が残っている。
以上、引用終了。
まず、最初の段落について。これは文脈上の問題だが、「自由が丘一帯は、もとは東京府荏原郡衾(ふすま)村字谷畑といった」という一部を抜き書きするなら、誤りではない(明治11~22年)。しかし、自由ヶ丘学園に由来するという文が前後にあることから、この時期はどうであったかを記すなら「東京府荏原郡碑衾町大字衾」(または碑衾村)とすべきだろう。
そして二段落目にある「碑衾町(ひぶすまちょう。旧衾村と碑文谷町が合併)」は、まったくの誤りで、正しくは「碑衾町(ひぶすままち。旧衾村と碑文谷村が合併し、のちに町制施行)」である。一文目と併せ考えると、この筆者はおそらく碑衾村の歴史的時系列を理解できておらず、単に書籍等のデータを引き写しただけのものでしかないのだろう。
さらに三段落目。内容は、自由ヶ丘学園の歴史を参照したものと思われるが、そもそもこれが誤り。昭和5年の項に、「自由主義教育を目標に掲げ、手塚岸衛により自由ヶ丘学園として創立。同時に町名および駅名が自由ヶ丘(現在は自由が丘)と改称される」とあるが、自由ヶ丘駅と改称されたのは1929年(昭和4年)10月22日、町名(大字名)が碑衾町大字自由ヶ丘となったのは1932年(昭和7年)6月16日であり、いずれも昭和5年(1930年)のことではない。
以上を踏まえて三段落目を見ると、「直前に地名が変更になったため新しい地名を採り「自由ヶ丘駅」と改称した」とあるのは、明らかに誤りであることが確認できる。また、「東急大井町線の延伸により九品仏の門前に駅が開設されることになり」とある部分も、今から見れば大井町線の延伸とうつるが、敷設当時はそうではなく、自由ヶ丘駅(当時、九品仏駅)~二子玉川駅間の二子玉川線としての位置づけでまずあり、それが大井町駅方面との接続の過程で大井町線として一体化したものである(二子玉川線については、もとは自由ヶ丘駅ではなく、奥沢駅を起点として計画されていた。東横線との接続が悪いため、途中で計画変更がなされたのであり、この時点でようやく大井町線としての原型ができあがったと解すべきである)。
四段落目は特に問題はないので、五段落目に行くと「自由が丘は東急東横線が開通するまでは竹やぶだったが、東急グループが開発をしていった」とあるが、竹やぶが多かったのは事実だが、それよりも田畑の方が多かったので、正しい表現とは言い難い。それ以上に問題なのは、「東急グループが開発をしていった」とある部分で、これは根本的に誤りである。確かに、今日に言う東横線及び大井町線の開通が大いなるきっかけであるのは間違いないが、今の道路パターンの原型は衾西部耕地整理組合の成し遂げた事業の賜物であるし、自由ヶ丘学園の誘致は土地を提供した地元の栗山翁のおかげである。戦後にできた駅前広場については、東急はほとんどかかわっているうちに入らない。また、商店街活動のほとんども地元の方々の先進的な努力の結果であり、田園調布や洗足等とは東急グループ(こういう表現もナンセンスなのだが)が果たした役割はまったくレベルからして異なるものである。
そして、「1970年ごろには町の形がほぼ整ったが、住宅街には木が多く、また、熊野神社に竹やぶの一部が残っている」についても、何をもって町の形が整ったという言い方をするのかによって、正しい正しくないは何とも言えないところだが、住宅地としてみれば戦前には形作られていたし、駅前広場の整備をもってというなら1960年代までには完成を見、現在に続く商店街としてのものであれば……と様々な見方がある。ただ、町の形という言い方をすれば、道路パターンや街並みを意味すると私は思うので、これに従うなら1970年頃というのはあまりに遅すぎる表現であり、誤りだとなるだろう。
以上、重箱の隅をつつくようなところも指摘したが、明らかに誤りであるところが多いのも確かだとなる。これは最初に書いたように、Wikipediaの性格上、やむを得ないところである。なので、使い方さえ誤らなければ、とても素晴らしいWikipediaであるのだが、これを単に「鵜呑み」するだけなら、本人が恥をかいたり、あるいは当社のような失態を演ずることはもちろん、Wikipediaそのものにも迷惑がかかるという結果を招来するだろう。よく考えて、利用したいものである。
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