もしかして、今年最初のBlog記事だったりするか、と思いながら久々にここに記事を書いてみようとなったのは、単にこのBlogシステムを忘れないためである。当たり前だが、使っていないと使い方などが忘却の彼方へすっ飛ぶのは、何事にも言えること。なので、東日本大震災から丸6年となる今日、あれこれと思い出しながら記事を綴っていくこととしたい。
6年前の3月11日。当Blogの古記事からも自分が何をしていたのかを思い出すことができるが、地震当日は、それほど重要事が起こっているとは考えなかった。無論、津波の被害が凄まじかったことは「見えてはいた」が、津波が凄いのであって、その結果についてはほとんど気にしていなかった。実際、東京圏においても長周期振動の体感は、生まれて初めてのものであり、電車の運行停止に伴って社から自宅まで徒歩帰宅した時も、今日だけの問題であってすぐさま、元の生活に戻るだろう程度の認識だった。
それが甘かったことは、この6年間、そして今日以降の未来を見ても、考えても自明だろう。東芝の今の危機も、言ってしまえばこの地震・津波・原発事故が不正会計を露わにしたことがきっかけであり、様々なものが3月11日より前とそれ以降とで変わってしまった。良い面で変ったものもあるだろうが、悪い面も当然のことながらたくさんある。直接的被害を受けていない私がこう思うのだから、直接的に影響を受けた方々については、察することも烏滸がましいとさえ思える。
しかし、年月だけは過ぎていく。風化や無関心との戦いが、今後は大きなものとなっていくだろう。だが、私の思うところ、縁起でもないと言われるだろうが、より大きな災害によって上書きされる危険性は常にある。最後は神頼み、というのはとどのつまり運次第。備えが運を呼ぶとは言え、原発事故にしても風向き一つで避難区域が変わったように、本当に最後の最後は「運」と思う。
では「運」とは何だろうか。運が良かったとは結果論であり、後から言えるものである。では運を良くする、というのは未来がわかれば結果の先読みで、運を良くすることが可能、となる。では未来がわかるか、と言えば当然わかるはずもない。気象情報等で予測はできるが、あくまで予測である。古くから先読みの技術とされる占星術も、それが気象と結びついていた(過去の積み重ねによる統計的事象)から当たったのであって、何もかもが当たるわけではない。つまり、運が絶対に良くなるわけではない。
それでも確率を上げ下げできるのは確かである。備えあれば、の備えは運を上げる確率を高める、という行為であり、理にかなっていればそれは行った方が良い、となる。一方、何ら根拠もなく、単に頼るだけのものは「気休め」としての効果はあるが(これはこれで大事なもの)、それだけである。どうせやるなら気休めだけにならない、しっかりした対策をとりたいものだとしつつ、今回はここまで。
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