今回も前回に引き続き。写真整理も終わりつつあるので、今回が一応の写真整理編最終回。コメント等は後刻追加します(と記したのが9月28日)。で、今回追記したのが10月14日(汗)。
シャンゼリゼ大通りに面するL’Alsaceのオープン店舗(部分)。我が国では、道路に店を出すというのが憚られるが(というか法違反。無論例外あり)、パリといわずに西洋では当たり前に見られる光景。L’Alsaceはパリに赴いた際、行くことが多かったが、今回は前を通っただけにとどまった。
オペラ座の館内見学には日本からの観光客が多いところの一つである。よって、このように6か国語の中の一つに含まれている。この日はたまたまリハーサル中で舞台見学はできなかったが、にもかかわらず見学料金は変わらないということだったので、中には入らなかった。
イノサンの泉。この日は晴れた日曜日ということもあって、多くの人たちが集まっていた。このすぐ近くには仏国王アンリ4世が暗殺された場所もある(この下文で紹介)。
フィリップ・オーギュスト(フィリップ2世)の城壁(市壁)跡の中でも有名なところの一つ、クローヴィス通りに残るもの。この道路自体も古いもので、ここに門の一つがあったことが城壁跡からも伺えるだろう(上部は壁が崩れているが、下部は整っている)。
リュテス競技場跡。ローマ時代の遺跡だが、特に入場制限などもなく単に公園(広場)的な利用がされている。私たちが行ったときには、子供たちがミニサッカーを楽しんでいた。
アンリ・ガリ小公園(Square Henri-Galli。スクウェア アンリ ガリ公園とする訳もあるが、Squareが小公園という意味合いなので微妙な表現)内にあるバスティーユ牢獄(要塞)の基盤の一部(遺構)。こんな所にあるのか、という意外性もあるが、それ以上に不可解なのがこの説明板のところまで行く出たてがない(柵を乗り越えるなど不正な方法なら可)。仕方がないので、望遠にして撮影したのが次の写真。
パリ市の船マークが付いている説明板。
VESTIGES DES FONDATIONS
DE LA BASTILLE
TOUR DE LA LIBERTE
DECOUVERTS EN 1899
ET TRANSPORTES SUR CET EMPLACEMENT
と読める。
あいにくヴァスチーユ要塞について詳しくないので何とも言えないが、文面からは自由の塔(TOUR DE LA LIBERTE)とあるので、8つの塔の一つがそういう名前だったのだろう(あまり似つかわしくない名前なので誤訳の可能性あり)。その塔の土台が1899年に発見され、ここに移されたとある。
ただ、まぁこれは知っていなければ単に通り過ぎるだけ、の場所でしかないのだが…。
そしてこちらもフィリップ・オーギュストの城壁(市壁)跡の一つ(写真右側)。正面に見えるのはサン・ポール=サン・ルイ教会。しかし、城壁跡は重要な文化財だと思うのだが、ご覧のように隣接する運動場があり、城壁跡にサッカーボールを蹴り飛ばしている子供たちがいた。そういう扱いでいいのかもしれないが…、う~む。
ブルボン朝最初の仏王アンリ4世が暗殺された場所、フェロヌリ通り(Rue Ferronnerie)。イノサンの泉の近くにある。場所を示す石板が写真左上(アーチ上方)にあるが、目線の高さよりも上にあるので、なかなか気付きにくい。
それを示す石板。
EN CE LIEU
LE ROI HENRI IV
FUT ASSASSINE PAR RAVALLAC
LE 14 MAI 1610
とある。
さらにパリ市の説明板(Historie de Paris)。これが目線の高さにあるおかげで、何とか見逃すことは免れることができる。
というわけで、ようやくコメント等が追加できました。
パリ市の成長の過程を示すモニュメントを興味深く拝見しました。リヨンの繊維関係の仕事をしておりましたので何回かパリを訪れたことがありますが、リヨンを主たる仕事場としていましたので訪れる余裕がありませんでした。民衆に愛されたアンリー4世も最後には暗殺されました。天智天皇も一説によれば狩りに出たあとでご帰還されなかったとのことです。改革者は常に死と隣り合わせであることは今日も変わりません。余談ですが遂にフランス語専用のソフトを使わずにアクサンをボールペンで記入してファックスでお茶を濁しました。もう練習する気力は残っていません。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/03/08 20:06