碑文谷耕地整理組合地における地名(字名、町名)変遷の経緯も、一応今回が最終回(の予定)。今回は、これまでの新字名→新町名(目黒区成立時)とは逆の流れ、新字名→旧字名がどうだったかを示す。なお、言うまでもないが、耕地整理(区画整理)を実施すると、従来の道路や河川・水路などが大きく変更されることで、土地の区画や境界もそれに合わせて多くが変更となる。今回示すのは、耕地整理前の境界線ではなく耕地整理を行った後、区画し直された土地と暫定的に振られた地番に基づいたものとしている。よって、耕地整理前の境界とは異なっている点について了解いただきたい(要は、明治や大正前期の逓信省地図等とは違うということ)。
碑文谷耕地整理組合地に隣接する、碑衾町大字碑文谷に属する字名まで含めて記載した。なお、荏原町(現 品川区)との境界は、昭和4年(1929年)12月19日に確定した変更後のものとしている。耕地整理前は荏原町(平塚村)との境界線も、現在のように直線状ではなく曲がりくねったものだったが、耕地整理によって直線状に確定された。つまり、少なくともこの時期までには、上図のような字境界になっていたと見込まれる。
では、以前に示した昭和5年(1930年)に新設された字名及び境界と比較すると、いくつか消えた字名があることが確認できる。以下に列挙すると、
- 法界塚下
- 金杉下
- 十羅刹下
- 下山
- 中丸
- 大門東
- 寺前
- 子ノ神下
- 三合塚
たまたま洗足田園都市区域に「池ノ谷」が残ったことから、上に示さなかったが、碑文谷耕地整理組合地に限れば、この池ノ谷を含めて10の字名が消滅したことになる。その大半は立会川流域にあたっており、なるほどと思わせるが、法界塚とか、十羅刹とか、いかめしい名前が消えているところに別の意図も感ずる。
一方で「原」の拡大は注目点だ。「中丸」「下山」「池ノ谷」をほぼ丸呑みし、「大門東」などを加えて、原町一丁目~三丁目となった。「子ノ神下」が高木町一丁目、「三合塚」が高木町二丁目となったのと比較をすると、強い「原」推進者がいたことを窺わせる。
といったところで、今回も簡単にここまで。
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