前回は、自由ヶ丘が正式な地名、つまりは行政地名(町名)となったことまで話を進めた。しかし、この昭和7年(1932年)という年は、満州事変の翌年であり、満州国建国の年であり、国際連盟から日本が脱退した翌年である。世の中は大正デモクラシーの自由の空気から、戦争の時代を迎えるようになる。その時、時代は自由ヶ丘という時勢に合わない地名を問題視するのであった、というところから始めよう。
時勢あるいは時局に鑑み、という言葉は戦中派の方々にとっては懐かしいが、あまりいい印象ではない言葉だろう。年賀状等でも、祝いの言葉は述べられず、時局に鑑み年賀状を出さないということも珍しくなかった。そう、この時代に「自由」という言葉は、時局に鑑みれば相応しい言葉ではなかったのである。
戦時中、いわゆる町会組織は戦争体制に組み込まれ、国家総動員体制の末端を担うようになっていた。その末端組織に「自由ヶ丘」という「自由」なる言葉は相応しくないと当局が考えるのは当然だろう。誕生してわずか10年ほどの自由ヶ丘という町名は、当局からの改名危機に晒されることになる。
しかし、どうにかこうにかその危機は去ったが、一方で米軍機の空襲を避けることはできず、自由ヶ丘の多くは廃墟と帰してしまった。名は残ったが、体は失われてしまったのである。しかし、戦後の復興は早かった。交通の要衝ということで闇市が立ち、罹災を受けていない住宅地も周辺に多く残ったこともあって、戦前以上に商店街が発展することになる。自由ヶ丘は、自由ヶ丘学園の街だけではなく、商店街の自由ヶ丘として再デビューを果たした。
それは、女性の解放とも大きく関係している。現在でも完全に男女平等といい切れはしないが、戦前と戦後では立場が大きく違った。民法は改正され、選挙権も女性に与えられた。憲法も、基本的人権は男女に違いはない。こういう時代になって、「自由ヶ丘」という名前はブランド力を強く発揮するようになり、さらなる発展を自由ヶ丘にもたらしたといえるだろう。
自由ヶ丘という町名は、昭和40年(1965年)1月1日、住居表示に関する法律によって、自由が丘一丁目、同二丁目、同三丁目となり、「ヶ」が「が」の字に改められた。これは当時、住居表示に関する法律の施行令・規則等が、今よりもかなり厳しく運用されていたため、現在では問題とならないような字の変更が求められたからである。そして、それに遅れること約1年、自由ヶ丘駅も自由が丘駅と表記が変えられた(こちらは東急電鉄の独自基準適用)。
それから以降、自由が丘は現在まで変わることなく続いている。町並みなどは変わっても、自由が丘という名前はこれからも愛され続けることだろう。
以上、6回という長きにわたって続けてきた自由が丘の地名の由来も終了です。また機会があれば、別の地名話をする予定でいますが、しばらく先となりそうかな…。
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