その1では、足元をコンクリートで固められた「車両通行止」の看板が、どうして何の変哲もない道路上に置かれているのか? という疑問を提示して終えた。今回のその2では、どうしてこのような形とされているのか、図書館等に出かけて調べてみた成果をお伝えする。
まず、はじめにこの場所をGoogleマップで確認する(こちらを参照。別ウィンドウで開きます)。これを見ると、ここが重要なところだと気づく。
何やら横線が道路上に入っているのが確認できるが、要はこれが車両通行止という意味である。地図ではもちろん、現実でも道路としか見えないこの場所が、なぜ車両通行止めとなっているのか。これを知るには、過去にさかのぼり歴史を調べるのが確実だ。
というわけで調べてみると、京浜急行空港線は、このあたりは以前は地下ではなく地上を走っており、1997年(平成9年)11月23日に地下化したということがわかった。ということは、以前は踏切があったのだろうか。このあたりは地元の方か、詳しい京急ファンの方にでも聞いてみないとわからないが、まぁ自分で調べられる範囲は自分で調べてみようと、手あたり次第、古地図を探してみた。すると、なかなかに興味深いものが見つかった。これである。
これは、この地域が耕地整理(耕地とは名ばかりで、東京周辺では宅地・工場地開発のための道路整備事業といえる)された際に作成された貴重な手書きの地図である。これは、耕地整理後を表しているが、注目ポイントはここである。
これを見ると、この部分は京浜急行空港線(当時の名称で言うなら京浜電鉄穴守線)の路線敷だったことがわかる。ここには掲載しないが、耕地整理前の比較図でも線路形状の変更は行われていないので、耕地整理によって新たにできた道路は、線路を挟んだところまでが道路であり、線路上は京浜電鉄の敷地、つまりは道路でないとなるわけである。
この意味するところは、もともと道路だったところに線路を通す場合は、道路占有許可を得て、道路交通を極力妨げないよう、様々な工夫が求められる(つまり踏切を作るのは当たり前で、かつ、必要以上に道路交通を妨げない工夫が求められる)が、後から道路が線路をまたぐように作られても、そこに踏切を設けるか否か、あるいは線路上を横断していいかどうかは、鉄道事業者が判断すること(地元等からの要請は当然あるだろうが)。なので、どう見てもここは踏切があってしかるべきという道路があっても、おそらくそれは鉄道が先に敷設され、道路が後だったことによるものだろう。加えて、線路をまたぐ必要性が薄い等と判断された結果だと思える。
こういったことから考えると、ここが車両通行止となっている流れは想像できる。正しいかどうかはわからないが、「鉄道が先に敷設」→「線路をまたぐように道路が新設」→「京浜電鉄が線路をまたぐのを認めない」→「例外的に歩行者等の通行を認める」→「線路は地下化したが、京浜急行電鉄の土地であり道路ではないことから、歩行者等の通行のみに限られる」→「結果、不自然な車両通行止の看板が設置された」となるだろうか。
というところで、次回は大鳥居そのものの謎に迫っていきたい(苦笑)。
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