今回は簡単に。
近い将来、大きく変わるであろうこの風景。といったところで、簡単にここまで。
普段立ち寄っている渋谷駅東口の某店。そこで、今年7月末で店舗移転するのでよろしくと挨拶があった。特に馴染み、というわけではないが面は割れているので(笑)、事情を伺ってみると入居しているビルが再開発によって取り壊されるので移転するのだという。
場所は、上写真に示した渋谷川沿いに立つ雑居ビル群の一つで、店主曰く「この一帯がみんな取り壊され、跡地は東急が買ってヒカリエ2になるらしい」と。
ヒカリエ2かどうかは別にして、渋谷駅東口側は東急がいくつもの物件を購入しているのは確かで、東急東横線が明治通り地下に移ることと関連している。まだまだ渋谷の激変は続くのかと感じつつ、今回はここまで。
世間ではGW(ゴールデンウィーク)ということで、海外旅行に行くのが云々とか言っているが、わざわざ混雑していたり料金が高い時に行こうと思わない私なので(その時期にしか行けないという方もあるだろうがそれはそれで)、今回のGWは基本的には近場で済ましつつ、のんびりするのをモットーで行こうと考えている。我が社でも5月1日及び2日は休みとしている部署は多いが、私の統括しているところは残念ながらそうではない。休むのは構わないが、1日か2日のどちらか一方のみを認め二日間続けて休むのは御法度とした。こういうのは早い者勝ちとなりがちなので、鋒を制したのだが、普段誰構わず休みを入れたがる輩からは不評だが、そうでない人達には好評を以て迎えられたようなので、来年もそうしようと思っている。と、我が社の都合はどうでもよく、そんなわけで私も今日から5月6日までの連続休暇ではなく、5月2日のみ出勤する前半と後半に分かれた休暇予定としたのである。で、その初日。一昨日(26日)オープンしたばかりの渋谷ヒカリエに行ってみることにした。
渋谷への行き方は、出発する場所によって様々な方法があるが、今回は東急東横線を利用し、ここの終点(始点)渋谷駅から向かうことにした。理由は、地上に存在する東横線の駅はあと何か月(十数か月?)程度しかないため、思い出(苦笑)として記憶にとどめておこうという狙いからである。
東横線ホームは、ご覧のように渋谷ヒカリエの広告がほとんどで、天井から吊されたセンスあるオブジェが目立つ。渋谷ヒカリエの地にあった、かつての東急文化会館はこの東横線2回改札からそのまま屋根付き歩道橋を経て直結していたが、東横線が地下化した後はどうなるのだろう。JR山手線や東京メトロ銀座線、京王井の頭線との兼ね合いもあるからなくなることはないだろうが──
いきなり通路は行き止まり状態で、看板には右方向矢印と「渋谷ヒカリエ」はこちら的案内をする人が立っていて、まぁ迷いようはないのだが、私的には通路が遮断されていることに驚かされた。
というのも、横断通路は従来のものは撤去予定なのか、完全に通行止め扱いとなり(上写真で見ると左側の方)、右側に新たな横断通路ができており、ここが渋谷ヒカリエに直結するようになった。単に老朽化のため作り替えたのか、渋谷ヒカリエとのデザイン性に由来するのかはわからないが、通路は付け替えられたことが確認できた。
通路を抜ければ、渋谷ヒカリエ入口(2階)となる。右に見える入口を入るとロクシタンやラムフロムがあり、どうやらここは女性向けのショップ集合体のようである。入口に立っていたおっさん(失礼!)も私にはチラシを手渡そうという気配すらなく、私より遠くを歩く女性にチラシを手渡そうとするなど差別扱い(笑)。
今流行のタッチパネル式フロアガイド。どうやら、地下3階~地上5階まではShinQsとか言うようで、この端末をいじってみれば、なるほど…ShinQs自体が女性向けだと判明。そうであれば、こんな所にいても面白くも何ともないのでさっさと退散。
一階まで降りて外から見れば、確かにShinQsというロゴもある。渋谷ヒカリエとは全体を指す名称で、ショッピングフロアをShinQsというようだ。なお、8階の一部には渋谷区区民サービスセンターや渋谷区防災センターといった行政施設も入居するが、お役所仕事らしく同日オープンとはいかず、6月4日オープン予定とか。
地上1階部分。ここを見る限り、渋谷ヒカリエのメイン入口はここではなく、2階の方だと強く感ずる。ただ、今回は行かなかったが、地下3階は東京メトロ副都心線と直結しており、先にふれたように東急東横線は地上2階から地下3階に異動、副都心線と相互直通運転を行うようになるので、東急電鉄としては2階よりも地下3階を主要導線としたいのではないかな…と思ってみたり(東急田園都市線もあるのでそんなことはないだろうが)。
渋谷ヒカリエを背にすれば、東急東横線のホームがよく見える。こうして見ることができるのもあと一年ほど? 平成24年度には東急東横線が副都心線と直結すると言っているので、もうしばらくしたら見納めになるか。隣接する東急百貨店東横店も、近いうちに取り壊しが決まっているので、渋谷の街も大きく変わっていくのだろう。
ちょっと離れてみたところから撮影。新しい歩道橋がちょうど円形のところ(アーバンコアとかいうらしい)の正面につながっているのがわかる。ずらしたのはやはり老朽化というよりは、デザイン性を重視したというところか。
で、渋谷ヒカリエの上の方。真ん中付近は東急シアターオーブがあり、さらにその上はオフィス棟となっている。今回は私事で出かけたので上の方には用はないので行かなかったが、仕事であればここに入居する企業に行く用もできるはずなので、その時はここからの眺めが楽しみである。そんなこんなで今回はここまで。
さて、今回は秋葉原を巡った際、適当に写真撮影したものを眺めていこうという安易な記録。
秋葉原電気街口方面から西側(中央通り側)を眺めた様子。アキハバラデパートがあったのは遠い彼方の記憶であるが、ラジオ会館も取り壊され寂しい様子。とはいえ、それは昔を知る人のみの感慨であって、今の人にはそんなことはないだろう。オノデンが健在なのがうれしい(坊やも)。
中央通りまで出て、総武線のガードをくぐり東側を見た様子。電波会館ビルにはかつて古炉奈が入居していたが、今は海賊風のレストランに変わっている。およそ三年前の業態変更だが、今も続いているようだ(入店経験なし)。
長年、墓標のように残されていたLAOXザ・コンピュータ館の跡も今は昔。ビルはそのままだが、看板などはすっかり取り替えられ、新たなテナントさんが多く入居している。栄枯盛衰といってしまえばそれまでだが、栄光の1990年代を知るものとしてはこれも墓標のように見えてしまう。ぢぢいだね…(苦笑)。
栄枯盛衰といいつつも、このあたりに見えるキッチンジローさんや、炉ばたさん、三幸さんは馴染みの店だ。ここだけは古き良き時代をそのまま残している(Windows 95発売日前夜、ここで呑んでいたことを思い出す…)。
そうそう、FreeTさんが移転オープンしていたのだった。ということで見に行ってみたら、パチンコ屋さん並の花輪の列が。今はなき、リナックスカフェの前までずらっと並ぶ姿は壮観だが、祇園精舎の鐘の音が聞こえてしまうのは気のせいか…。
変わったといえば中央通りに面する店舗も入れ替わりが多い。こうして写真撮影して気づく店舗もあったりして、競争が激しいというだけでなく、いかにしてこの場所を知ってもらうかというところからして大変だと痛感。
さて閑話休題(大した話ではないのに閑話休題もないもんだ、と自覚しています)。東京の地下鉄網は完成したとされているが、こうしてみるとパリなど他の大都市と比べてどうなんだろうと思うところはある。環七通りや環八通りに新交通システムを、という議論はあるが、需要と供給以前に車社会を今のままとしておく時点で困難であろう。
そして、相互直通運転という視点で見ると、副都心線の東急東横線乗り入れが残された大きなものだが、東武伊勢崎線に日比谷線並びに半蔵門線が乗り入れるのと同じく、東急東横線も日比谷線と副都心線と複数乗り入れることになる(東急目黒線にも南北線と都営三田線が乗り入れているが、扱い上は南北線のみということもできる)。そうなると、田園調布駅と多摩川駅は、現在でも日比谷線、南北線、都営三田線が乗り入れており、これに副都心線が加われば実に地下鉄4線が直通することになる。路線上は2線しかないのに行き先表示上は東急東横線、東急目黒線、日比谷線、南北線、副都心線、都営三田線となって、初心者にはさっぱり意味不明となるだろう(笑)。
さて、最後にオマケ。コメント無しで。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
といったところで、今回はここまで。
というわけで前回の続き。
宝来公園について前回は色々書いたが、公園そのものは広くはないものの落ち着いた空間で読書にはぴったり。子供たちが遊ぶというよりは、大人のための公園といった方が相応しいか。近くには多摩川台公園もあるので、コストさえ許せばこのあたりに住みたいものだと思う(ムリです)。
さぁて散策。さすがは田園調布三丁目エリア。家々の庭木は美しく、歩いているだけでも飽きない。桜と緑のコントラストもいいが、電柱と電線が気になってしまう…。美しいものの中だとこういうものが目に付くようになってしまうのだ。
春は暑くもなく寒くもなく散歩日和だと感ずる。年寄り臭い物言いだが(若者から見れば十分に年寄りだろうが)そう感ずるということは、主観的にも客観的にもそうなのだろう。
下方に東急東横線と東急目黒線を見る。地下化された田園調布駅だが、このあたりから線路は地下に入る。上方は駐車場などに利用されているが、土地の有効活用は都市では当たり前なので行っていて当然ではある。桜も美しい。
桜花のややアップ。美しいのだが、散るのも早い。儚いねぇ。
このあたりから東側を眺めれば、かつての田園コロシアムでもあり野球場でもあった、今は田園テニス倶楽部のコート、そしてマンションが見える。このあたりからは、遠く奥沢や雪谷あたりの高層マンション等も見ることができるほど眺めがいい。地上でこれなのだから、建物の二階からではさらにいい眺めだろう。このあたりに住んでみたいものだ(無理)。
多摩川駅方向に道を進んでいけば、カトリック田園調布教会や聖フランシスコ修道院などが並ぶあたりに出る。復活祭と入口に掲示してあったので、まぁそういうことだろう。どうでもいいが、釈迦の誕生日とキリスト復活の日って同じ日あるいは近いのかな。
坂を下りきれば、高台に立つ教会を仰ぎ見るようになる。このあたり(写真左側に進む道なり)はちょうど水路が走っていて、宝来公園の池もここに位置する谷地にあたる。起伏の激しい地形なので、田園都市株式会社の造成工事も洗足のように簡単にはいかなかったのだ。
以上、多摩川駅付近まで降りてきたので、田園調布散策はこれまでにして、散策中気になったものを一つだけ語っておこう。
それは電柱にはられている電柱(支柱)名である。これには様々な歴史が刻まれており、地名であったり、最初に電気を引いた事業所名だったり、地元名士の名字だったり等など、実に興味深いものがある。そして、多摩川駅付近から田園調布三丁目の一部には、このような「松茶屋支」という名がはられている。わかる人にはこれがかつて多摩川台にあった松之茶屋に由来しているものだと気付くが、実はこういうものもある。
こちらは「松之茶屋支」とあり同じNTTのものだが、これには単にNTTとあり、先のものにはNTT東日本とある。つまり、こちらの方が古いのだが、新しい方は「松之茶屋」でなく「松茶屋」と「之」の字が省略されてしまっているのだ。どうでもいいといえばどうでもいいのだが、こういう表記の揺れによって、いつしか松茶屋が独り歩きすることもあるのではないか。そんなことを考えながら、今回はここまで。
一昨日は花見と洒落込んでみたが、散策と称した以上、東工大近辺だけでは面白くないので、多少足を伸ばして田園調布付近の散策を愉しんだ。
田園調布といえば、かつて西口にあった「あの駅舎」となるが、今はもちろん単なるレプリカ。近づいてみればがっかりの張りぼてのもの。かつての駅舎を知るものとしてそう思えるのだから、地元の方々はどうお思いだろう。形だけでも残ってよかったとするのか、それとも東急電鉄の仕打ちに嘆くのか…。まぁ、観光客っぽい人達はそんなことお構いなしではあるのだろうが。
西口駅舎すぐ近くには、あの田園調布会の建物がある。よくある町会会館のようなもの、といってしまえばそれまでだが、社団法人田園調布会は田園都市の伝統を今に引き継ぐ、由緒ある自治会(町会)なのだ。
銘板も「社団法人 田園調布会」と派手ではないが目立つ位置に掲げられている。田園調布会は、田園都市株式会社が分譲したエリアをほとんど範囲としているのだ(世田谷区にある部分が含まれていないほか、分譲エリア外であるところをごく一部含む)。
田園調布西口といえば、三本の放射状道路に植えられた銀杏並木であるが、さすがにこの季節はこのようにほとんど葉が見られない。ただし、近づいてみれば新芽が出てきており、春だなぁといった感じ。
放射状道路三本のうち、もっとも南側の道路を進むと突き当たりは宝来公園にあたる。宝来公園は、もともと田園都市株式会社が調布田園都市の付属物(憩いの場)として管理・運営していたが、田園都市株式会社が目黒蒲田電鉄に合併される際、寄付金(手切れ金のようなもの)と合わせて調布田園都市住民に寄贈された。この財産管理を目的として誕生したのが「社団法人」田園調布会というわけである。(田園都市として最初の洗足も同様に、弁天池公園と寄付金を得て社団法人洗足会となった。)
だが、公園管理は一自治会には荷が重く、東京市にこの地域が合併されて2年ほどで東京市に寄贈され、東京市宝来公園となったのである。
見にくい位置にあるが、寄贈されたことを記念する銘板が残されている。ちょっと不鮮明の部分もあるが、このようなことが書かれている。
本公園ハ多摩川ノ沿岸旧荏原郡下沼部村ノ丘陵ニ位シ附近ハ亀甲山古墳ヲ始メ上代文化ノ遺蹟ニ富ミ風光典雅ニシテ樹木湧水ノ美ハ克ク武蔵野ノ俤ヲ残セリ
大正十四年田園都市ノ開発ニ際シテ特ニ汐見台ノ地ヲ公園ト為 以テ旧景ヲ保存セラレシカ昭和九年十月所有者田園調布会ハ之ヲ本市公園地トシテ寄附セラレ爰ニ施設成リ開園ニ際シテ其由来ヲ刻シ同会ノ芳志ヲ後世ニ伝フ
昭和十一年四月
東京市
最後の一文に「其由来ヲ刻シ同会ノ芳志ヲ後世ニ伝フ」(そのゆらいをこくし どうかいのほうしを こうせいにつたふ)とあるようにこの銘板は地元にとって重要なものであり、残しておくべきものであろう。その一方で、東京都からこの公園を移管された大田区もこのような「宝来公園の由来」を掲示している。
ふぅ…(呆)。と、まずは嘆息を出してから(苦笑)。当blogで地域歴史研究関連(特に池上電鉄や目蒲電鉄関連)の記事をご覧いただいている方であれば、私の嘆きもわかってくれよう。以下に引用する。
本公園は、多摩川の沿岸旧荏原郡下沼部村の丘陵に位置し、附近は、亀甲山古墳を始めとする多くの遺跡に富んでいます。園内には、梅、桜をはじめ、クヌギ、シイなど、約70種1500本の樹木が繁り四季折々の自然の美しさは、今も、武蔵野の面影を残しています。
大正14年、田園都市の開発に際し、武蔵野の旧景を保存し永く後世に残すために、田園調布株式会社は、街の一画の汐見台の地を公園用の広場として残しました。その後、田園調布会に贈られ、昭和9年10月、当時の所有者、田園調布会より、東京市に寄附されました。東京市は、当時の金で一万円を投じて整備を行い、昭和11年4月「宝来公園」として開園されました。そして、昭和25年10月1日に大田区に移管され現在に至っています。
昭和61年2月 大田区
ほとんど、昭和11年(1936年)に設置された東京市の銘板のぱくりだが、致命的なところは「田園調布株式会社」としてしまったところだ。無論、正しくは「田園都市株式会社」だが、これを見て得心したものがある。何の書籍か忘れてしまった(どうでもいい内容だったから覚えていないのだろう)が、田園都市株式会社を田園調布株式会社のような勘違いをしているものをいくつか見たが、この大田区の看板から引用したのだとすれば引用者が哀れに思えてくる。何にしても、大田区はこの罪作りな案内板をかれこれ25年(4半世紀)以上も晒しており。その罪は重いと断言しておこう。
また、公園内にもこんな案内板があった。
大田区自然観察路「雑木林のみち」と題するものであるが、昨今のお役所では意味のない組織名変更ブームが続いており、数年毎(ひどい所では2~3年毎)に組織名を変えるなど迷惑千万なのだが、こういうところだけはしっかりと書き換えているようである。だが、多摩川園という2000年(平成12年)8月で改名された駅名は放置されている。約12年前に改名した駅名は放置で、自分の所の組織名はその都度変えているというのはいかがなものかといえるだろう。ついでにいえば、今は存在しない公園管理事務所もそのまま記載されている。
そして、比較的まともな宝来公園案内図。面白いことにこの案内板には、お役所の管轄や連絡先が書かれていない。頻繁に変わるものだから、あえて載せなかったとしたら英断だとは思うが、本末転倒であるとも感ずる。
と、宝来公園の件で思った以上に時間を取ってしまったので、この続きはまた次回。
今日は絶好の花見日和だ、ということで散歩がてら大岡山(住所的には半分程度が大田区石川町が大半)の東京工業大学へ出かけた。
本部前のオープンスペース(桜並木ウッドデッキというらしい)両側には桜の木があり、おそらくここが東工大では一番の花見スペースなのだと思う。もっとも私の目的はあくまで散策なので、ブルーシートを敷いたりとか場所取りなどをするつもりはまったくない。みなさん、お疲れさん!
とはいえ、キャンパス内にも桜の木はけっこうあって、歩いているだけでも花見はできる。
東工大に来たら、やっぱり東急目黒線及び大井町線を跨ぐ橋からの眺めでしょう。ということで来てみたら、なんと富士山がみえなくなってしまっているではないか(驚)。1年半ほど前の当blog記事「東工大(大岡山)の東京富士見坂…?」で、ここが「関東の富士見百景」の一つに数えられているとご紹介したが、上写真でわかるように線路右側に見える巨大ビルによってだいぶ隠されてしまっているのだ。この巨大ビルは東工大のグリーンヒルズ1号館(環境エネルギーイノベーション棟)で、自らの建物によって景観をぶちこわしたといえなくもない。比較用に、1年半ほど前の写真を以下に示す。
目立ちますなぁ、グリーンヒルズ1号館(環境エネルギーイノベーション棟)。こちらの写真では影形すらない。ちなみに富士山の見えるのは遠くに見える高圧線鉄塔左側あたりである(上写真では雲に隠れて見えない)。
さて、続いては。
すべてのキャンパス内の桜を見たわけではないが、私が気に入ったのはこの一本。大岡山西9号棟付近のもので、この下で読書できたらどんなにいい気分だろうと思ったが、やめた。
花見とは関係ないが、今の時期ならではの教科書販売所(臨時、かな)。私もかつてはこういうところに並んで買い求めたっけ(遠くを見る目)。ふぅ。
結局のところ、花見は本部前のウッドデッキ付近で楽しんだ。一週間後はもうこうなっていないだろうなと思いつつ、今回はここまで。
今日は東京地方でも雪が積もるほどだったが、こういう日に限ってキャンセルできない出張があったりする。営業など外回りが前提の方々にはお疲れさんとなるが、普段あまり出張することのない私の場合だと、う~む…と思ってしまうのだ(嘆息)。
とはいえ、せっかくの雪の日に出かけたわけで、こういう日でないとできないことをやろうと考え、それがPlayStation Vitaの内蔵カメラで町並みを撮影しようとなったのである(って強引すぎか)。なお、以下の写真は撮影したデータそのものではなく、画像処理を行い、サイズをやや縮小している。こうした理由は、いまどき生データをそのまま使うなどあり得ないと考えるからだ。以上を前提として写真を見ていこう。
今日の出張先の一つは、大田区田園調布。最寄り駅は東急東横線及び目黒線の田園調布駅。私が到着したときには既に雪はほぼやんでいたので、撮影自体は何の困難もなかった。これは、レプリカ然となった田園調布駅舎。保存運動はあったものの、あっさり取り壊され、今ではレプリカが残るのみ。
そしてこちらは東口を眺めたもの。地下化されたことで見通しはよくなった。何でもかんでも保存するのはどうかという意見もあるが、残せるものは残した方がいいとも思う。
西口。自動車の通るところや歩行者の歩くところは、除雪作業や踏みつけられるなどして雪が目立たないが、そうでないところは数cmほど積もったのだとわかる。
駅改札方向を眺める。雪はきれいに片付けられている。すれ違ったこどもに「あの人ゲーム持ってる~」といわれたが、そんなことは気にしない(焦)。
にしても、今日は寒い。こうしてみると、画像処理を施したとはいえ、それなりに写っているようだ。もっとも最近の携帯電話やスマートフォンには遠く及ばないのだが、撮れるだけましと思うようにしつつ、今回はここまで。
最近は東京都渋谷区がらみの記事が多くなっているが、これは旧渋谷町の町名等にかかわる調べを行っている関係で、現地確認を行っているためである。という言い訳めいたことを述べてから、この写真をご覧いただこう。
「ハチ公からのお願い」とはあるが、内容は何のことはない。そう、犬の糞の不始末などの話である。「ボクをつないでいっしょに散歩」とか「フンの始末も忘れないで!!」とあるので、それ以外の意味はないのだが、問題はなぜハチ公であるかということである。お願いすべきは、渋谷区保健所ないしこの看板を付けざるを得ないこの家屋の居住者ないし近隣の方々であろう。ハチ公からでないことは明らかだ。
とはいえ、そんな深い理由などありはしないのも確か。渋谷区(保健所)としては、少しでも表現を和らげようとか、親近感を持ってもらおうかとか、お役所的なつまらない理由からの発露だろうが、ハチ公に対して失礼ではないかと思ってしまう。もちろん、私はハチ公と何らかかわりのない第三者であり、そういう私がこう見えてしまうのであるから関係者の想いはいかばかりか(苦笑)。
ま、フンの形も犬のものに見えない(蜷局を巻くような犬糞って…)ので、ハチ公以前の問題の看板ではあるが、迷惑なら迷惑と看板に書けない結果がこの有様。う~ん、と悩みつつ、今回はここまで。
東京都渋谷区にある宮下公園と言えば、渋谷駅近くにある公園としてそれなりに有名だったが、昨年に「みやした こうえん」というお役所流行りのひらがな表記化してリニューアルオープンをしたという。もともとは、戦前に計画された都市計画公園であったが、駅近くということで建物が既に建て込んでおり、1936年(昭和19年)時点の航空写真ではこのようになっていた(その翌年に米軍空襲でかなり焼けてしまう前の状態)。
主なポイントは写真に上書きした。緑色で囲ったのが、現在の「みやした こうえん」(完全には一致していないが概ね)で、水色の線が渋谷川を表す。下方の渋谷駅は、東京高速鉄道が建設し、帝都高速度交通営団を経て現在は東京地下鉄(東京メトロ)の銀座線が立体構造物として見えている。また、(東京)陸軍刑務所は二・二六事件に縁の深いところだが、現在は渋谷区役所となっている。
で、みやしたこうえん(旧宮下公園)となるところは1944年(昭和19年)時、山手線と渋谷川に挟まれた地域であることに違いはないが、建物が建ち並んでいることがわかるだろう。これが翌年の米軍機による空襲で焼け野原となり、ようやく宮下公園として生まれ変わることになる。なお、宮下公園の名の由来は、1928年(昭和3年)に旧渋谷町に誕生した大字名である「宮下」(渋谷区成立時に宮下町となる)からで、「宮下」の由来は上写真に一部が写っている(渋谷川右側にある道路の右側に広大な庭が見える所)梨本宮邸の下(低い地)となる。
そして時代は一気に現代に進み、今のみやしたこうえんの案内図。宮下公園の歴史まで入れてしまうと長文化必至なので、ご容赦ということで。で、この細長いみやしたこうえんだが──
案内図の左側を拡大すると、何とまぁ都会的なというか、スケート場、フットサル場、クライミングウォールとかの表記が見える。もはや公園というよりも、施設的な位置づけになったような印象である。実際に──
これはスケート場だが、ご覧のように利用が有料のためか囲われている。それも簡単に乗り越えられないような構造となっている(さすがに鉄条網や高圧電流が流れる仕掛けはないはずだが、物理的には簡単に設置できそうな感じではある)。こういうところからも公園ではなく、施設という印象を持つのである。
こういった有料施設的な使われ方、つまり想定された利用法以外にも面白い使われ方がされている。管理事務所のガラスが鏡のようになっているので、公園の使用(仕様)としては未定義だが、ダンス(パフォーマー?)の練習が行われていたりするのだ。私が通ったときも女子の皆さんが練習をしており、さすがにこれは想定外の使われ方ではないかと思った。とはいえ、都会的な使われ方ではあるのだが…。
以上、リニューアルオープンされたみやしたこうえんを眺めての印象だが、もはや公園とは名ばかりで立派な施設(広い意味で公園も施設ではあるが、いわゆるハコモノ的な施設という意味)になったという印象が強い。なぜこうなったかは裏の目的があるとする話が聞こえてくるが、大都会の公園の役割とは何かと考えを巡らせば、バックグラウンドが何であるかは別にしてこういう利用方法もあると思う。間違いなく言えることは、以前の汚い、そして通りにくい雰囲気はほぼ一掃されていて、リニューアルした価値はあると感じた。そんなことを感じつつ、今回はここまで。
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