今回は簡単に。
近い将来、大きく変わるであろうこの風景。といったところで、簡単にここまで。
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池上電気鉄道の歴史において調査していて辛いのは、基本資料(史料)が少ないことにある。もちろん、正史のない西武鉄道などにも同じことが言えるわけだが、始末の悪いのは池上電気鉄道が目黒蒲田電鉄に敵対的株式買収で統制・支配され合併に至ったことから、勝者による敗者の歴史というだけでなく、史料(資料)自体も摘まみ食いされる傾向が高いことに因る。
今回取り上げる光明寺駅はその中の一つで、基本資料である「東京急行電鉄50年史」(以下、東急50年史)での扱いは「なかったことにされている」(歴史を記述する態度としては、資料が存在しないものは伝承等があっても否定するという見解に立つのはわかるが、鉄道忌避伝説論者のように現在的視点から「発見された資料」のみで否定する見解に持って行く態度はいかがなものかということ)のであるが、現実は単に資料の調査不足(あるいは意図的無視)に過ぎず、現実に存在していたことは戦前の基本資料の一つである「東京横浜電鉄沿革史」(以下、東横沿革史)や池上電気鉄道自身による路線図や運賃表、官報、鉄道省申請文書等の公的文書からも明らかである(下は官報大正12年(1923年)5月8日付記事より)。
とはいえ、このような経緯から自明のように、無視されるだけの理由がないわけではない。なぜなら、光明寺駅は成立時こそ何時かははっきりしているが、いつ廃止になったのかがはっきりしないからである。成立は、1923年(大正12年)5月4日の池上~雪ヶ谷間延伸開業(いわゆる第二期線開業)の際、池上~雪ヶ谷間に新規開業した駅(停車場、停留場)の一つで、
池上 ~ 光明寺 ~ 末広 ~ 御嶽山前 ~ 雪ヶ谷
ということで、新たに開業した4駅の一つであることが確認できる。だが、1926年(大正15年)になって光明寺駅の存在意義が問われるような動きが現れ始める。それが慶大グラウンド前の開業である。
慶大グラウンド前駅は、開業時は当時の荏原郡池上村と同郡調布村の境界付近にあったが、1927年(昭和2年)の都市計画道路計画によって移転を余儀なくされた。一方、目的地である慶應義塾大学の運動場(野球場や陸上運動場等)までの道路が耕地整理によって新たに作られたことも相俟って、慶大グラウンド前駅は光明寺駅寄りに異動することになる。この結果、既存の光明寺駅と慶大グラウンド前駅の間隔は約200メートルまで接近し(これは今日の大崎広小路~五反田よりも短い)、光明寺駅の存在意義、必要性が問われるという流れとなったのだ。(参考記事「慶應義塾大学新田球場における旅客争奪戦 後編(シリーズ「池上電気鉄道 VS 目黒蒲田電鉄」)」ほか。下図はこの記事より引用。)
また、池上電気鉄道は鉄道自体にも大きな変更が生じようとしていた。それは複線化工事である。池上~蒲田間開業以来、池上電気鉄道は複線で建設予定だったにもかかわらず、単線で開業、旅客運輸を行っていた。このため、鉄道省からは仮設備扱いを受け、大正年間中は本設備(複線化)になるまでの猶予期間をたびたび延期申請を行うほどだったが、高柳体制から川崎財閥系に経営体制が変わったことで、ついにこれが実現しようとしていた。これは1927年(昭和2年)中に実施され、同年7月27日に蒲田~雪ヶ谷間で複線化工事が完了、営業運転を開始した。
この複線化工事と慶大グラウンド前駅移転工事は密接に関係しており、複線化工事と同時に施工されている。そうなると、移転後にわずか200メートルの距離となる光明寺駅はどうなるのか。複線化対応した光明寺駅が存在したのか否かが気になるところだが、この時期、興味深い資料(史料)がある。国立公文書館にある鉄道関係資料のうち、池上電気鉄道に関する次の記事である。
何と、複線化完了後、二週間足らずで廃止申請が成されているのである。内容自体は閲覧した際に確認したが、単に廃止するという短い内容であり、鉄道省への提出文書であるのでその経緯であるとかはまったく記載されていない。だが、本当にここで廃止されたかどうかは疑問符が付く。理由は、この後になっても池上電気鉄道が鉄道省に提出する各種文書(例えば雪ヶ谷~桐ヶ谷間延長工事に関する申請図面とか、昭和3年以降の文書など)にも光明寺駅が存在するかのような記載があるからである。
もちろん、延長工事などの図面類は、実際に申請するかなり以前から作成されているのが常なので、それを最近の動向を踏まえて訂正するのが本来としつつも、なかなか励行されないこともある。推測でしかないが、慶大グラウンド前駅の移転は池上電気鉄道にとっては唐突に行われた(都市計画道路によって)ため、複線化工事と同時期に施工させたものの、その結果、光明寺駅と著しく近接することとなったので、廃止せざるを得ないという判断が働いた。だが、他の申請図面上等はそれを修正するまでには至らず、そのまま存置されたのではないか、と見る。
光明寺駅が1927年(昭和2年)中に廃止された証拠は、池上電気鉄道自身が作成した営業路線図にも示されている。作成時期について確実な月日までは特定できないが、本図は延伸工事が続く中に作成されたものであって、駅名を追記し易いようになっている。これを見れば、光明寺駅の入る余地はなく、どんなに遅くとも1927年(昭和2年)までには廃止されたことが確実となる(下図を見れば、慶大グラウンド前と末広 間に駅の入り込む余地はない)。
そして、この図の裏面には、
このように「来春迄には五反田駅に於て省線と連絡」云々あるように、来春とは1928年(昭和3年)を指すことから、この文章が作成された時期はその前年である1927年(昭和2年)と判断できるわけだ。
以上のように、どの史料(資料)のどの部分に着目するかによって、光明寺駅の存在そのものや廃止時期については揺らぎが起こる。現時点の私の見解は、以上を踏まえて次のような流れを示して、光明寺駅の変転については結論づけたい。
慶大グラウンド前駅の異動については複線化工事と密接に関連しているが、時期については国立公文書館の史料から6月24日と判断した(昭和2年6月24日 慶大グラウンド前停留場を停車場に変更の件)。また、光明寺駅の営業については、複線営業開始によって事実上休止されたと判断した。理由は、廃止前提でわざわざ下り線(蒲田方面)専用ホームを作らない(単線時のホームは複線営業後、上り線(雪ヶ谷方面)に転用)だろうからとの推測による。
また、巷間には光明寺駅が駅名改称の結果、慶大グラウンド前駅になったとする説も聞こえるが、これについては併存期間が確実に史料(資料)から確認できること。加えて、慶大グラウンド前駅が開設後、わずか1年程で移設したという事実がほとんど知られていない(私もこのことを確認したきっかけは「池上町史」にさらっと記載された短い文章から)ことがあるだろう。といったところで、今回はここまで。
今週は予期していなかったこともあるが、急な仕事がドカっと入り、なかなか身動きがとれない。なので、ちょいとあけた更新でありながらも中途半端で後日更新(追記)予定。
上図は、池上電気鉄道が蒲田~池上間を開通させてから五反田まで全通させた時までの駅名及び単線・復線別にあらわしたものである。と、ここまでで後日追記します。
2012年7月15日追記
本文中に後日追記(当初は後刻追記)としていましたが、光明寺駅の廃止時期について考えるところがあり、結局追記できませんでした。光明寺駅の廃止時期については新たに「池上電気鉄道 ─ 光明寺駅の廃止時期」という記事を作成しましたので、こちらをご覧下さい。この結論に立てば、本記事の上図は変わりはないとなりますが間が開いてしまったので別記事として改めて取り上げることとし、本記事は中途半端でありますが、これで終了。タイトルにPreviewと追記することにします。
「池上電気鉄道、開業前の年表作成の試みに関する一考」と「池上電気鉄道、開業後から1927年までの年表作成の試みに関する一考」の続きです。
さて、今回も池上電気鉄道の年表を東横沿革史(東京横浜電鉄沿革史)と東急50年史(東京急行電鉄50年史)とを比較しながら、残る7年間を見ていこう。
残る7年の年表は、これまであったような両書間の年代的違い(錯誤)は見い出せない。ただし、記事の数はこれまで以上に東横沿革史のものは少なく、わずかに4記事しかない。
実にあっさりと言うべきか、何と言うか…。五反田~蒲田全通以外は会社の体制にかかわる記事のみで、それ以外はない。1927年以前の東横沿革史年表も記事の数は、東急50年史より少ないのだが、それにしても少なすぎる。特に、奥沢線(新奥沢線。雪ヶ谷~新奥沢間)は腫れ物を扱うがごとく、と言っていいのか、まったくふれられていない。ただし、全般的に1928年(昭和3年)より後の時代は、総じて池上電気鉄道に関する記事は少なく、私もこれまでに様々な文献等を見る限りにおいて、まったくといっていいほどないに等しい。統計資料からは、五反田まで全通したことで乗降客数が倍々ゲームで伸びていることはわかるのだが、これといったトピックがないのか(大きな事件などがなければ年表に記しにくいのはわかる)、別の理由があるのか何とも言えないが、記事が極端に少なくなるのが目黒蒲田電鉄に統制されるまでの4~5年間なのである(1930年=昭和5年は何一つない)。
以上のことから、池上電気鉄道の通史をあらわす場合、困難な問題の一つが五反田まで全通して以降の歴史がそれ以前と比べてスカスカであることにある。無論、奥沢線問題や白金延長線問題など、個別の事象はあるにせよ、社全体としての取り組みと言おうか流れと言おうか、そういったものが見えにくいという点にある。だからこそ、事業展開として見るべきものがないから合併されるという憂き目に遭ったとの判断もあるだろう。そんなことをあれこれ考えながら、今回はここまで。
先月、いや先々月にリリースされたAdobe CS6シリーズ。最近は、バージョンアップ権に制限を加えたり(現行バージョンの一つ前までしか認めないとしたが、批判によって期間限定ではあるが制限解除)、セキュリティパッチはCS6へのバージョンアップで対応してくれ(これも批判によってCS5に対してもセキュリティパッチがリリースされた)などとAdobe社の殿様ぶりが際立つが、この一環か(笑)、未だに日本語版のリファレンスマニュアル的なもの(ヘルプPDF版含む)すら存在しない。
最近は紙のマニュアルが添付されないのは致し方ないにしても、オンライン版ないし電子版(PDFなど)すらないのは、これだけ多機能・高機能なCSシリーズを使い込むのに難であるのは自明である。6月に「CS6ヘルプPDF版」がリリースされるとなっていたが、日本語版Webページではリンク切れのURLしか掲載されず、US版も6月下旬になるまでは動きすらなかった。
そして、7月に入ってようやくリンク先が有効になってダウンロードを試みたら、何とUS版と同じPDFファイル。つまり、ようやくリリースされたばかりのUS版PDFファイルへのリンクとなっていただけだったのだ。
Adobe社の、というかCS6開発陣の内情は知ったことではないが、製品をリリースした後、1~2か月以上を経てマニュアル(ヘルプPDF)をリリースするというのはどういう神経なのだろう、と思ってしまう。US版がこの調子なのだから、そこからローカライズされる日本語版のマニュアル(ヘルプPDF)をすぐに求めるのは無理がある。
まぁ日本語版でなくとも支障はないのでPDFをダウンロードして利活用しているが、もしバージョンアップでない新規ユーザであってかつローカライズを必要とする方であれば、このようなAdobe社の対応は「ふざけるな!」と言いたくなるものだろう。殿様相手だから仕方がないとするか、他の選択肢を探すべきか。そんなことを思慮しつつ、今回はここまで。
全国津々浦々に見られる「中央」という地名。「中央」という名を広く広めたのは、現在のJR中央線(中央本線)と中央大学だと思っているが(どちらも明治末期に命名)、地名(自治体名)として「中央」を広めたのは戦後に誕生した東京都中央区だろう。
では、その中央区はなぜ「中央」を名乗ったのか。日本橋区と京橋区の合併なので、大田区(大森+蒲田)のように日京区という案もあったようだが、東京の中心としての採用であることは間違いない。では、なぜ中区などではなく中央区なのか。「中央」という名前にこだわった理由までは定かでない。この点が気になるのは、戦前に中央と名乗る地名はほとんど(まったく?)見られないからである(中町とかならある)。
この中央区を皮切りに、東京23区では住居表示制度以降、次々と町名として採用されていく。
しかもご覧のとおり、わずか1年9か月(昭和40年9月~42年6月)の間に集中して採用されているのである。この当時、東京特別区は独立した地方自治体としてではなく東京都の内部団体的な位置づけであったので、隣接区に同様の町名は避けるよう指導を受けていた。実際に隣接する区は大田区と目黒区のみ(もともと目黒区も中央だったものを都の指導によって中央町とした)だが、それでも特別区にこれだけの中央と冠する町名が誕生したのは奇異に映る。
ちなみに、中央と冠した町名に区役所が存在したのは、江戸川区、大田区、目黒区の3区で、このうち江戸川区を除く2区は交通不便な地域からそうでない地域に移転している。一方、足立区は中央本町が成立した際、区役所はこの地になかったが、現在は移転してこの地にあるという目黒区や大田区とは逆のパターンである。また、中野区では中央は区の中央部という意味合いであって、区役所が中央に存在したことはない。
中央という地名は全国各地に見られるが、味気ない名前とする評価も多いものの、どうしてその名が付けられたかという意味からすれば、それはそれで地域の歴史となるだろう。そんなことを思いながら、今回はここまで。
国内外のニュースでも喧しいが、いよいよCERNからヒッグス粒子について重大な発表が現地時間4日午前9時(日本時間4日午後4時…って勤務時間中かぁ…)に行われる模様である。ヒッグス粒子については、CERNとは別に米国フェルミ研のテバトロンによっても近日中にアナウンスされるという話があり、CERNとしてはこれ以上発表を先延ばしできないという事情が見え隠れするが、何にしても発見報告まで秒読み段階に入ったとなるだろう。
学生時代、未知の粒子として学んだものが、ついにというかようやくというかいよいよ標準模型(理論)が完成したとなるのだろうが、既に「ある」ものとして学習した者としては、それが理論値に近いものなのか新たな発見といえるものがあるのかなどが気になる。ともかく、半年以上前に告知されて久しかったが、尻に火が付いたところでこのタイミングの発表。さて、どんな発表となるか楽しみとしつつ、今回はここまで。
参考記事1「CERN, LHCで7TeV(テラ電子ボルト)到達! いよいよHiggsボソン発見か!?」
参考記事2「いよいよヒッグス粒子、見えてきたか」
2012年7月4日午後7時45分追記
CERNから「CERN experiments observe particle consistent with long-sought Higgs boson」とプレスリリースが出たが、ちょっと歯切れが悪いような印象を受ける。やはり米フェルミ研の跫音が近づいていたからかなとも思ったが、これまでの観測(実験)等によってこのエネルギー帯がHiggs Bosonであることは疑いないだろう。2012年とまだ21世紀も始まったばかりだが、世紀の大発見と言っていい!かな。
出土橋、タイトルにも記したように「でどばし」と読む。場所は、東京都大田区中央四丁目20番と31番にまたがるところで、ゼンリンの電子地図で示せば以下のとおりとなる。
大きい地図・ルート検索 ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )
もちろん、現在は橋のようには見えない。以下の交差点横断歩道やや左寄りあたりに川が流れ、同じく横断歩道あたりに橋が架かっていた。これが出土橋である。出土橋は今にいう旧池上通りが内川を渡るところで架橋されていた。
それを示すのが、上写真右側に見える石碑で、
だいぶ下部が汚れて見にくくなっているが、上側には「いにしえの東海道」と書かれているように、江戸以来の東海道ではなく、それ以前の東海道(平間街道と言ったり、相州鎌倉街道、池上道など様々な呼称がある)だったことを示している。さらにこの右奥には、
葉で一部が隠れて読みにくいが、「旧新井宿出土橋跡」とある。旧新井宿とは、もちろん当該地域の旧地名(とはいえ、新井宿という名は区の出張所や小学校などかなり残っている方である)で、住居表示制度前までは新井宿○丁目として。東京市に合併される前は荏原郡入新井町の大字新井宿として。さらに1889年(明治22年)の市制町村制施行前には荏原郡新井宿村として、長い歴史を持つ由緒ある名である。
なお、出土橋という名前自体は最近ではほとんど聞かれることはないが、現在でも電柱に「出土橋支線」とあるように、出土橋はかつてこの地域ではそれなりに名の通ったものであることが伺える。数年(十数年?)程前までは、交差点に面する歯科医院の隣に出土橋を冠した商店があったが、既に今はない。周りを見る限りだが、出土橋を名乗るものは石碑の他は電柱の支線にのみ残り、もはや巷間に上らない地名となった。
では、なぜ出土橋というものを今回取り上げたのか。簡単ではあるが、最後にこのことにふれておこう。私は現在、池上電気鉄道の歴史を調べているところであるが、そもそも池上電気鉄道は「大森駅~池上」間の交通機関として誕生し、それは馬車輸送の置き換えを狙ったものだった。しかし、このルートは本線であったにもかかわらず、免許取消しの憂き目に遭い、鉄道としては未成のままとなった。だが、池上電鉄成功事例の一つであるバス事業では、大森駅~池上ルートを実現し、これはドル箱路線となった。現在でも大森駅~池上駅のルートは、大田区役所が大田区中央二丁目から蒲田駅東口に移転して以降、減少傾向にあるものの、まだまだ輸送需要は多い。このドル箱路線であった頃の昭和初期のバス停は、
であり、出土橋という興味深い名前を確認したかったというわけである。といったところで、今回はここまで。
携帯機っていいなあと思うのは、いつでもどこでも電源(電池)さえあればプレイできるということ。「アーシャのアトリエ」をプレイしようと思えば、帰宅して周りに気を遣いながらTVを占有して座してプレイするわけだから、場所と時間の同時占有という点から携帯機に軍配がどうしてもあがる。なので、多忙(だった)とはいいつつも、購入後にちまちまプレイし続け、ようやく最初のエンディングまで到達した。ネタバレ云々は人それぞれなのでなかなか語りづらいが、私なりに気を遣いながらネタバレとならないような感じで部分的には曖昧にふれていきたい。
さて、最初のエンディングは、PlayStation 2で「ペルソナ4」プレイ経験有の私としては、当然、新要素を積極的にという視点から、新たに加わったマリーをコミュの中心に据えてプレイすることを心がけた。残念ながら彼女とは一緒に「仲間として」戦うことはできない上、コミュニティ形成の流れも取って付けた感が否めず(実際にペルソナ4に取って付けたもの)なのだが、それでも他がしっかり丁寧にプレイしやすく作られているのでそれで十分という印象だ。
なので、この方針からマリーとはコミュMAXにしたのはもちろん、恋人にもして、他のアプローチはすべて袖にするという厳格な態度でのぞんだ(笑)。最終的にコミュMAXできたのは、ペルソナ仲間として戦うことのできる全員と、イヴェントの展開に悪影響が出てはまずいと勝手な判断から堂島家の二人、もともと前作から好みだった成り上がりで部のマネージャでもある彼女、暑苦しい部活仲間と学校関係と家族(あえてこう言わせてもらおう)、強制的にイヴェントでMAXとなるもの、そしてマリーのみであり、それ以外は初回プレイではMAXに到達できなかった。しかも、一人のコミュは関係すら築くことができなかった(外回りのコミュをある程度進めないと出てこないため)。約4年前のプレイを思い出しながらのものとしては、まぁまぁではないかと思う。
そして、結構残念だったのが「釣り」ができなかったこと。「ペルソナ4」とは手順が異なり、釣り竿が手に入れられなかった(最後の最後で釣り針を手に入れたが遅すぎた)のである。Internet経由で情報が手に入ることは重々承知しているが、そういうものを当てにした初回プレイは嫌いとはいいつつも、誘惑に負けそうにもなったが、自力で発見できたことはよかったと今は思っている。いずれにしろ、釣り竿が入手できなかったので、一部コミュは当然途中で止まってしまい、さらに神社に出てくるあの女性(マリーと関係ありそうだとは思ったのだが…違うかも)のイヴェントも(たぶん)進められず仕舞い。当然、クエストも完全なる達成は不可能となった(いくら通販で魚が手に入るといっても数が足りない)。
一方、ペルソナ図鑑だが、こちらは76パーセントまで到達した。やろうと思えばまだまだあげられたとは思うが、セカンドプレイ予定だったこともあって適当なところで切り上げた。加えて、コミュ自体が一つ出ていないこと、コミュMAXの達成ができていないものが多いことも要因として数えられる。なので、自明のごとく青い部屋の彼女のコミュも半分程度までしか進まなかった。
とはいえ、ペルソナ合体は「ペルソナ検索」機能の追加で大変やりやすく、しかもわかりやすくなった。この進化は手放しで喜ぶしかない。人によってはどんなペルソナができるのかという楽しみを奪われたと感ずるかもしれないが、私はこういう方がありがたいし助かる。この機能ばかりを主に使ったからかは定かでないが、初回プレイで合体事故に遭遇することはなかった。必ず合体事故は起こるものだと確信しているが、確率が相当低く設定されているのか、あるいは合体方法に条件があるのか、はたまた単に運がよかった(悪かった)かは何とも言えない。
「ペルソナ検索」以外にも使いやすくプレイしやすくなった機能は多い。確認してはいないが、PlayStation 2「ペルソナ4」をプレイしてみればその違いを確実にできるだろうが、そこまでせずとも便利になったのは疑いない。そして携帯機になったことで、長いダンジョンであったとしてもすぐにスリープ状態にしておけば続きができるという、このありがたさ。まさにハードとソフトが密接に連携してプレイ環境を向上せしめたといっては褒めすぎになってしまうか。
ただ、プレイ時間はどうしても長くなってしまう。特にダンジョン探索はそれなりの時間を要するし(初回はNORMALでプレイ)、様々な条件をクリアするには最低でも1ダンジョン2回はトライしなければならない(一部例外有)。私のプレイ時間は、セーブデータを見ると69時間余りとなっており、この時間はPlayStation 2と違って付けっぱなし(放置)時間は含まない。ただし、全滅リトライはまったく行っていない(うまくいかなかったからデータロード、も行わなかった)。なのでほぼそのくらいの時間を要した、となる。
「ペルソナ4」の時は、バッドエンド、ノーマルエンド、トゥルーエンドとあって、最初の二つが真犯人が不明のまま終わり、トゥルーエンドで真犯人+αという構成だったが、本作はそれに加えてトゥルーエンド自体(+αの部分)に新たな要素が付け加わった。いや、トゥルーエンド自体のさらにその先が追加されたとなるだろうか。これ自体がネタバレ臭が強いが、追加要素があるということで、このことは予見される可能性は高いだろうからここまではご容赦となるが、最初のプレイでここまで到達できたのはもちろん「ペルソナ4」プレイ経験があったからに他ならない。何の情報も無しに、いきなり本作を始めたプレイヤーにとってはバッドないしノーマルエンドだろうから、なかなかふれにくいが、ここで言いたいことは「ペルソナ4」経験者であったなら、より深く愉しむことができるということである。
まだまだ積ゲームは多いが、それを差し置いてでもセカンドプレイ(周回プレイ)をやろうという気にさせる本作なので、今日から再び空き時間に相まみえていきたいとしつつ、今回はここまで。
昨日は日中ほぼ一日外出していたが、どこかで何かをするとかいう目的ではなく、のんびり気分転換で出かけたのだが、帰宅時は結構大荷物になっていた(苦笑)。そのうちの一つがこれ。
「またゲーム機買ったの!」ってママに怒られそうだが(苦々笑)、まぁそれはそれで。自分で稼いだものなのだから許容範囲だ(自己弁護&肯定)。もちろん、買ったモデルはWi-Fiモデルで、頼まれてももう3Gモデルは買わない。
で、開封してみるとクイックスタートガイドは手抜きで前のまま。クリスタルホワイトなのは外箱だけで他は黒と変わらず。ACコードやアダプタとかも白くはなく、こういうところはSONYらしからぬところと思うが、SCEだから別ってことかな。
そして本体。白が鮮やかだが、汚れが目立つような気も。このようにディスプレイを消灯しているからなのだが、前の黒いモデルと比べると画面が小さく感ずる。膨張色の白にディスプレイパネルの黒が載っているので、画面が小さくなったような錯覚を覚える。
並べてみればこんな感じ。実際、画面が点灯して何らかのコンテンツを表示すれば印象は変わるが、単純に上写真のように並べてしまうと、本体そのものも白い方が大きく見えるし、その関係で画面が小さく感ずるわけだ。どうでもいいといえばどうでもいいことではある。
PSNでの認証によるダウンロードコンテンツのしばりは、PSPやPSVハードウェアが2機までと改悪されたので、この白Vitaを導入するとPSPを一台外さねばならない。今、PSPの認証を外すと未だVitaでは対応できていないPS1ソフトを携帯機で楽しめなくなってしまうので、今暫くお預け状態。そんなこんなで今回はここまで。
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