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2013/02/17

コメント

友人の一人の職場がかつて、仲六郷にありました。大田区仲六郷1-6-27に、「町屋児童公園」があります。

コメントフォローどうもありがとうございます。
マンションを建築した際の代償措置として設けられた件の児童遊園ですが、あの場所は町屋ではなく「出村=出雲町」の場所だったのです。しかも半世紀ぶりに無理矢理復活させた感が強いので継承されていないと看做しています。

ありがとうございます♪

その名前を知っていたので、何げにコメントしたのですが、そういう背景があったのですね。
それで、実は改めて驚きもあります。
というのは、そもそも児童公園というのは、「わんぱく」とか「なかよし」とか「ゆうやけ」というようなネーミングをされることが結構あり、大田区の児童公園も、これらの名前の児童公園があります。片方で、「南六郷一丁目児童公園」というように、住所表示まんまのネーミングの児童公園もあります。
さて、この「町屋児童公園」ですが、最寄の児童公園は二つあり、「仲六郷一丁目児童公園(住所まんま)」と、「仲一みどり児童公園」で、ともに仲六郷一丁目に存在しています。

なのに、二つは、「仲六郷一丁目由来」のネーミングなのに、町屋だけが、異質です。
さわやか児童公園でもなく、こうま児童公園でもなく、「町屋児童公園」
これは、何かこの名づけをした人の意図があるんじゃないかと。
違っているかもしれませんが、こういうふうに考えるとおもしろいなぁと思いました。

あと。
町屋跨線橋(跨線人道道かな?)も、「町屋」の名前がついています。
もっとも、1975年架橋なんで、新しくてダメですかね(;^_^)

コメントありがとうございます。
まず、JR(国鉄、省線、院線)の跨線橋や隧道、踏切名などには古い名が保存されていることが多く興味深いものです。町屋のそれも跨線橋の架け替えとか、それ以前にあった踏切などの名が継承された可能性が高いのではないでしょうか。少なくとも公園名等のノスタルジー的なものではないと見ます。
そして公園名についてですが、時代によって流行廃りがありますね。住居表示によって古い地名が塗りつぶされた頃(戦前の価値否定による伝統破壊。同様の例としては明治時代の江戸期否定による伝統破壊)、公園名等は住居表示によって新たに採用された名称になるパターンが流行(というかルール)でした。ですが、最近は公園のベンチにも命名権が付与される時代であって、公園の土地を寄附するなどで好き勝手に公園名が付与できる時代になっています。寄付者のノスタルジーによって古い地名が採用されるのはこのような背景があるわけですね。

ちょっとどころか大幅に話題がそれますが(いつものように)小学生の時、糀谷から転校してきた生徒がいて(1964年ころ)M君というのですが(これは後で重要なキーワード)六郷川と多摩川のことを言っていました。私たち久が原近辺の人は多摩川というのですが、そのころは変なの?と言っていましたが。あとになって、高校生の頃、河口からどこまでが六郷川で何処からが多摩川なのか調べました。JRの多摩川/六郷川に架かる橋梁はJR東日本六郷川橋梁なのですね。その少し上流の第2京浜国道に架かる橋は、多摩川大橋。どうも2国とJRのあいだくらいで変わるようですよ。でその糀谷から転校してきたMくん一家は1964のオリンピック前に漁業権を放棄した海苔漁師の一家なのでした。3家族ぐらいいたと思います。実はインドにいるのでなかなかインターネット事情が悪くアクセスできません。

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