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2013/02/12

コメント

XWIN II様
 毎回地域別に町村の合併統合の経過を説明して頂き大変参考になります。
 私のような大正末期に生まれたものにとっては、悲しいかな旧町名を聞いた時にその光景が直ちに頭に浮かびますが、新町名では丁目と地域の関連が地図を見ないと分かりません。
 例えば上池台でも、芸能人や有名人が住んでいた池上洗足町などは、聞いただけでイメージが湧きます。このことはまた港区と言う地域の特殊性を無視した合併で町名を聞いただけでは直ちにイメージが湧かないのも同様です。

「池」にこだわりたくなってしまうのですが、方や「池上」があり、世田谷区に「池尻」があります。「上」と「尻」この間に、大昔、大きな池があったのでしょうか。これはもう、洗足池などではない、大きな池ですよね。地名にともに「池」がついていることから、何か、あったんだろうなぁなんて、妄想たくましくしてしまいます。
【当コメントは別記事に付けていただいたものですが、おそらくこちらの記事だろうということで異動させていただきました。】

逆もまた真なり、ということで近年の方の場合ですと、現行町名でないとイメージがわかないというのもあるでしょうね。池上洗足町については、東京市合併以前から洒落た町名(区域名)に改称しようという運動があり、昭和6年(1931年)5月の耕地整理による字界変更の時にすったもんだがあって、近いうちに東京市に合併されるのだからと宥められ、区域変更のみで字名は千束のまま改称を見送りました。東京市合併時に晴れて池上洗足町となったわけです。荏原郡池上町大字道々橋字千束、東京市大森区池上洗足町。同じ場所、同じ家、だったとしてもこの両地名を比較すると…。

そして「池」。私としては「巨大な池」があった(京都の南の巨椋池のような)というよりは、武蔵野台地に入り組んだ谷戸地形から派生した多数の「池」に対して「上」だったり「下」だったり、あるいは「尻」だったり「元」だったりと位置関係に基づく「字」が合成されて得られた地名と見ます。実際、江戸期の絵図を見ますと、多数の池が散在していることが確認できます。地形的に大きな池が形成されるのは難しいのではないか、と。

XWIN II 様
 池上洗足町の経過興味深く拝読致しました。町名には古い友人や親しくしていた人々との楽しい思いでも込められているので、寂しさを感じることもありますが、これも時代の変化として受け止めなければ成らないかも知れません。
 江戸は井の頭や妙法寺池のような武蔵の台地の湧き水で形成された多数の池を貴重な水源としていましたので、池の付く地名が残ったのでしょう。宅地化と道路の舗装で多数の池が消滅しましたが、小学生の頃夏休みの課題として立会川の水源の調査で碑文谷公園の池迄たどり着いたことを思い出しました。

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