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2012/06/25

コメント

最近東京近郊電車案内という1926年5月発行の雑誌の抜粋のコピーを都立図書館から入手しましたが、池上電車の項で、本社は大崎町谷山138番地であり社長は中島久万吉となっているので、川崎第百銀行の中にあったのでしょう。私の記憶では中原街道と環状六号線と交差する角にあったように思います。この案内書は雪谷迄しか開通しておらず、近く五反田迄の工事に着手し、途中駅を、洗足、馬込、中延、平塚、北耕地の五カ所を予定しており、完成したら池上大森間に着工する旨記載されておりますが、用地買収は全く進捗してなかったので夢物語に終わったのでしょう。石川台は予定に入っていなかったようですね。また蒲田と雪谷の間の運転間隔を10分と記載されていますが、単線であればこの程度が限度でしょう。それに対して目蒲電車に関してはかなり詳しく名所案内が記載されており、運転区間も目黒と横浜、目黒と蒲田の間の双方が運転されていることが記載されており当時からかなり差を付けられていたことが分かります。

コメントありがとうございます。
本社の場所が大崎町谷山138番地、とあるのが気になったところ。「昭和初期の池上電鉄大崎広小路駅周辺を見る」記事に大崎広小路駅周辺の地図を載せましたが、138番地というと駅南側の奥まった場所になります。果たして、この場所に本社があったのか…?

東京近郊電車案内によれば、池上電鉄が雪谷で足踏みしている時、目黒蒲田電鉄は目黒蒲田間と目黒横浜間を15芬間隔で運転されていると記載されています。城南地区は既に内堀迄埋められてしまった状態では、川崎財閥も抗戦をギブアップしたのも当然でしょう。

コメントありがとうございます。
雪ヶ谷までの盲腸線かつ単線だった頃の営業成績が振るわないのは、なかば自明のことではありますが(当時、どこで上り下りの交換を行っていたのかは未調査ですが、起終点の蒲田と雪ヶ谷、中間の池上と予想)、五反田まで全通と複線化によって乗降客数が著しく伸びたことは東横沿革史の統計からわかります。だからこそ、目黒蒲田電鉄は敵対的株式買収による合併を選択したと思うので。
高柳体制のままであれば「座して死を待つ」のを横目に眺めていればよかったものが、川崎財閥の登場でそうはならなくなった。ただ、勝算のない戦いに見えたのも一方であったからこそ、驚天動地の買収が可能になったとも思いますが。

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