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2012/04/16

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江戸時代でもしばしば大火に見舞われた経験から強制的に空け地を設けて延焼を防ごうとしました。神戸でも広い道路が効果を発揮したこともありますので、焼夷弾を回転式の羽でばらまく方式には役に立ちませんでしたが、平和時の地震による火事には役立つのではないかと思いますが、現実には私権の壁があって実行困難であることも事実です。

強制疎開について、疑問に思うことがあります。それは、強制疎開された土地は、その後、どのように売られるのか。ということ。実家の地元駅、東洗足駅周辺も強制疎開での立ち退きが多数ありました。戦後、再び地元に戻ってこられた方もおられますが、そのほとんどは、場所的には少し違う場所へのお帰りでした。強制疎開された土地は、誰のものになったのか?
国でしょうか?そうすると、強制疎開をさせられた人は、二束三文(立ち退き料ぐらいだったらしいです。それも1か月以内に立ち退けと)で吸い上げられた土地をどのようにして、また自分の手元に戻したのか。
一般には、まったく知られないことですよね。

建物強制疎開のその後…。
あまりふれてはならないような領域という印象が(苦笑)。
戦後のどさくさとはよく言ったもので、いわゆる不法占拠されたところもそれなりに多かったでしょう。建物強制疎開とは無縁の、例えば東急大井町線緑が丘駅付近高架下の家屋とかもあったわけで、それが更地状態であったようなところは…。

私は和歌山県新宮市で強制疎開の憂き目にあいました。私たちはある宗教団体の信者で当時教会の長屋に住んでいましたが強制疎開の結果長屋は取り壊わされました。長屋が取り壊されていく様子を逐一私は見ていました(当時7~8歳)。同じ新宮市内でなぜ自分たちのところは立ち退きで、そうでない家庭はどうして免れたのか当時は考えもしませんでした。今、戦争体験は風化しつつあります。当時の子どもとした是が非でも伝えねばならぬとの思いでまず思い出したのが強制疎開です。新宮市には焼夷弾は落ちずに戦後地震による大火で市街地は丸焼けになるという皮肉な巡りあわせでした。東京では財界人の高級住宅地は東条英機の指示で無傷であったとのこと。立ち退きおよび戦後の立て直しの費用はどうなったのか不明です。我々は泣き寝入りしたのでしょうか。当時の記録は残っているでしょうか。3.11の被害者のためにも為政者をしっかり監視せねばなりません。声をあげねば何も変わりません。

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