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2012/03/13

コメント

もしもは歴史的に通用しませんが、このルート変更がなければ今日の自由が丘の発展は無かったでしょう。大岡山といい自由が丘といい,駅が村境にあるのは何か理由があるのでしょうか。
本題からは逸れますが、目蒲線の高圧線の鉄塔と東京工大を横断する高圧線の鉄塔が写っているので目蒲線も昭和7年にはすでに高圧線の鉄塔があったということですか。

目蒲線の高圧鉄塔。
私もそれを思いました。
「昭和7年」というのは、何かが動き出した年なのかもしれませんね。
それは一体何だったんでしょうか……

それにしても、すばらしいお写真です!
石川台駅もそうですが、見たことはあるけど、こんな見事な写真で見た覚えがありません。感服いたします。

追伸
碑衾町史を目黒区立図書館で検索してみましたが蔵書してないようです。閲覧は可能でしょうか御尋ねします。高架の上を走っているのは目蒲線開通時から活躍した1型か6型でしょう。私が家族に連れられて出掛ける時は既に2両連結でした。

追伸
碑衾町誌は洗足の図書館にありました。申し訳ありません。

はじめまして。こんなにすごい記事を有難うございます。もしご存知でしたら教えて下さい。奥沢駅の横にある操車場というのでしょうか、電車を何列も置いておける広い土地がなぜ奥沢にあるのかずーっと不思議だったのですが、この大井町線の起点に備えて確保した土地だったということでしょうか?

枯れたBlogにコメントありがとうございます。
さて、奥沢に広大な土地があった理由。これは田園都市建設のために確保された土地となります。ただし、鉄道建設計画は用地買収と密接に関連しており、結果として目黒蒲田電鉄線が目黒~蒲田間と確定した時点で、ほぼ中間であること、そして用地が確保できること、が主な理由となります。
このことから、洗足、大岡山、奥沢、多摩川台(調布)とあった田園都市計画は、大岡山が現 東工大に、奥沢が鉄道用地等となり、半分程度の規模に落着いたわけです。
よって、大井町線の起点云々などでは勿論なく、紆余曲折の結果、もっといえば出たとこ勝負(結果オーライ)となるわけです。

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