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2012/03/26

コメント

国立公文書館の昭和02年08月01日付けの
平12運輸02156100の001
双信閉塞機設置および変更の件の添付図面によると池上の次がただ慶応と次が光明寺となっており、閉塞信号は慶応駅に設けられています。慶応とは慶応大学グラウンドのことだとおもいますが、複線のための閉塞装置ですが、ご指摘の通り双方の駅が併存していたのでしょう。既に院電の払い下げ車も運転されていたとおもいますが、単車運転でしたので駅間距離が短くてもなんとかなったのでしょう。駅の廃止は住民の抵抗があったのでしょう。

追伸
光明寺駅は地図によると六郷用水の上にあるように示されていて現在より雪谷寄りの様に見えます。光明寺自身は目蒲線の新丸子の方が近く、慶大グラウンド前は武蔵新田駅の方が近いのと同様ですね。

昭和4年測量の地図では、グラウント前駅の位置は 上の昭和3年の地図と同じで、光明寺駅はない。
光明寺駅は この間に廃止されたと考えれば矛盾はない。
問題は、昭和7年測量の地図に 現千鳥町駅と同じ場所に、駅名の記載はないが 駅らしき印があること。
この間にグラウント前駅は 再度移転したのか、グラウント前駅(二代目)に代わる 千鳥町駅が開設されたのだろうか?

追伸
現地を検分してきました。痕跡は何もありませんが、道路や六郷用水跡などから、ある程度の感触は掴めました。

前回私的したように、昭和7年の地図には 駅名なしに 駅の印だけありますが、次の昭和12年の地図には、全く同じ場所に「ちどりちやう」という駅があります。
考えられることは、
〇昭和3年~4年に 光明寺駅がなくなり、ほぼ同じ場所(ただし六郷用水の南側)に、
➀グラウント前駅(三代目)が 昭和4年~7年の間に移設され、昭和11年に 千鳥町駅に改称されたか、
➁昭和4年~7年の間に 千鳥町駅が新設された、すなわち 昭和11年の改称は誤り、
の いずれかでしょうね。 

枯れたBlogにコメントいただきありがとうございます。
千鳥町への改称は、昭和7年10月1日にこの一帯が東京市に編入された際に誕生した「調布千鳥町」に由来するので、どんなに早くてもこの年月日以降であるのは確実です。また、池上電気鉄道は複線化後、目黒蒲田電鉄に統制されるまでの間、桐ヶ谷〜蒲田間の投資などを行っていないことから、合併された後の動きと見るのが適当だと考えますね。
どちらにしても、最近は史料等にあたっている時間がほとんど取れないため、まともな返しができなくて恐縮です。

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