タイトルには付さなかったが、久々の古い一枚の写真のコーナー。今回はこれ。
この写真は、東京高速鉄道株式会社が今日の地下鉄銀座線を建設中のもので、昭和13年(1938年)頃の渋谷駅付近の様子を概観できる貴重な写真である。方位的には、渋谷駅東側から西側(道玄坂上方面)を眺め見たもので、写真上側の左側より地下鉄線車庫(ご存じの方はご存じのように渋谷は谷底なので、地下鉄といえど地上に存在)があり、3編成が並んでいるほか、手前にも2編成が高架線上に待機しているのが見える。その右側には玉川電気鉄道線(山の上から続く線路が見える)、さらにその右側には神泉トンネルから出てくる帝都電鉄線(今日の京王井の頭線)、その手前の三角屋根は帝都電鉄線渋谷駅、さらにその手前には駅ビル的な二幸が確認できる。
写真手前側には、高架線建設中の地下鉄線が今よりもはるかに狭い渋谷駅西側駅前広場を越えようとしているところ。山手線はこの写真の手前側にあり(よって写っていない)、撮影場所が東横百貨店(現在の東急百貨店東横店)であることも予想できる。東京市電もまだまだ現役であり、今日とは違う渋谷駅の活気ある状況が伺える。
まだまだ注目すべき点はあるが、出勤時間が近づいていることもあって今回はここまで。
またまた貴重な写真有り難う御座います。昭和13年頃とのことですが、青山会館で実施されたの受験のための模擬試験の帰り道に地下から地上に顔を出した所を見物に行って作業員と話をしたことを思い出しました。多分宮益坂の上りきったあたりであったと記憶しております。帰りに東横デパートの食堂で食事をしました。玉ビルは鉄骨の状態ですが、結局東急に買収されるこ運命にあったとのことです。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/10/18 11:39
追伸
左手に東京高速鉄道の新型車両が既に車庫に納品されているのが見えますが、当時としては斬新な設計で注目の的と成りました。道玄坂上から陸送されたのでしょう。これでは漫才にネタにはなりませんね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/10/18 14:16
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
この写真、本当に見るべき所が多く、手前の鉄骨も玉電ビルだと最初は気付きませんでした。位置的に東京高速鉄道線でないのはわかるのですが、では何だろう?ということで、当時を知らない私にとっては勉強にある一言一言です。ご教示ありがとうございます。
時期を見て、もう少しこの写真を解析してみたいと思っています。
投稿情報: XWIN II | 2010/10/19 12:59
年代的に見て、真珠湾攻撃の3年ぐらい前ですので、この頃が建築用鋼材の割当の最後でしょう。戦艦大和に鋼材は回されたのでしょう。結局沖縄の近海でくず鉄になりましたが。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/10/19 20:25
はじめまして。
初代 type Z ユーザーで、昔の渋谷が好きな者です。
以前からこちらのブログを愛読させていただいてます(笑)
この写真すごいですね!ご自身で撮影されたんですか!?
当時まだこのあたりは旧町名の「大和田町」だったんでしょうね~。
投稿情報: shog | 2010/10/23 22:57
コメントありがとうございます。
>この頃が建築用鋼材の割当の最後でしょう。
↑
なるほど。さすがにこの視点は私には持つことができません。時代は統制経済に向かっていく過程にあったでしょうが、開戦前の時点ではそこまで行っているのかな、という当時を知らぬ者の戯言くらいしか出てこずにすいません。
>当時まだこのあたりは旧町名の「大和田町」だったんでしょうね~。
↑
渋谷区(それ以前の豊多摩郡渋谷町)は、大正期には全国で最大の(人口規模)町村と言われており、全国にあった市と比べても20位程度には入るという所だったといいます。
このような状況の中、町でありながら市と同等の機能を町制が持つようになり、水道や電気など、公益事業にも手を出すようになってきます。そうなると行政の効率化という話の中から、大字整理(町界整理)の話が出てきて、昭和3年には大規模な大字再編が実現します。これが渋谷区成立時にもそのまま大半が引き継がれたわけですが、その中の一つが「大和田町」です。
旧町名といいながら、その実、歴史の長さからするとそれほどでないものもあったりして興味深いのですが、このあたりの話もいずれは採り上げていきたいと考えています。
投稿情報: XWIN II | 2010/10/31 12:14
鋼材の割当ですが、私事で申し訳ありませんが義兄が役員をしておりました東横デパートも増築を諦めたと言うことです。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/11/03 19:14