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2010/10/18

コメント

またまた貴重な写真有り難う御座います。昭和13年頃とのことですが、青山会館で実施されたの受験のための模擬試験の帰り道に地下から地上に顔を出した所を見物に行って作業員と話をしたことを思い出しました。多分宮益坂の上りきったあたりであったと記憶しております。帰りに東横デパートの食堂で食事をしました。玉ビルは鉄骨の状態ですが、結局東急に買収されるこ運命にあったとのことです。

追伸
左手に東京高速鉄道の新型車両が既に車庫に納品されているのが見えますが、当時としては斬新な設計で注目の的と成りました。道玄坂上から陸送されたのでしょう。これでは漫才にネタにはなりませんね。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。

この写真、本当に見るべき所が多く、手前の鉄骨も玉電ビルだと最初は気付きませんでした。位置的に東京高速鉄道線でないのはわかるのですが、では何だろう?ということで、当時を知らない私にとっては勉強にある一言一言です。ご教示ありがとうございます。

時期を見て、もう少しこの写真を解析してみたいと思っています。

年代的に見て、真珠湾攻撃の3年ぐらい前ですので、この頃が建築用鋼材の割当の最後でしょう。戦艦大和に鋼材は回されたのでしょう。結局沖縄の近海でくず鉄になりましたが。

はじめまして。
初代 type Z ユーザーで、昔の渋谷が好きな者です。
以前からこちらのブログを愛読させていただいてます(笑)

この写真すごいですね!ご自身で撮影されたんですか!?
当時まだこのあたりは旧町名の「大和田町」だったんでしょうね~。

コメントありがとうございます。

>この頃が建築用鋼材の割当の最後でしょう。
 ↑
なるほど。さすがにこの視点は私には持つことができません。時代は統制経済に向かっていく過程にあったでしょうが、開戦前の時点ではそこまで行っているのかな、という当時を知らぬ者の戯言くらいしか出てこずにすいません。

>当時まだこのあたりは旧町名の「大和田町」だったんでしょうね~。
 ↑
渋谷区(それ以前の豊多摩郡渋谷町)は、大正期には全国で最大の(人口規模)町村と言われており、全国にあった市と比べても20位程度には入るという所だったといいます。
このような状況の中、町でありながら市と同等の機能を町制が持つようになり、水道や電気など、公益事業にも手を出すようになってきます。そうなると行政の効率化という話の中から、大字整理(町界整理)の話が出てきて、昭和3年には大規模な大字再編が実現します。これが渋谷区成立時にもそのまま大半が引き継がれたわけですが、その中の一つが「大和田町」です。
旧町名といいながら、その実、歴史の長さからするとそれほどでないものもあったりして興味深いのですが、このあたりの話もいずれは採り上げていきたいと考えています。

鋼材の割当ですが、私事で申し訳ありませんが義兄が役員をしておりました東横デパートも増築を諦めたと言うことです。

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