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2010/08/23

コメント

子供の頃から我が家に出入りしていた植木屋が中目黒に住んでいましたが、子供である私に目黒村の人々は馬鹿だと愚痴をこぼしていたのを思い出しました。茅葺き屋根ではSLの火の粉による火災の危険があり、激しい反対に遭遇したことも想像がつきますが、後日の渋谷の繁栄を見て目黒の村民は地団駄踏んでくやしがったが全ては後の祭りであったことも事実です。今日の深い谷間にある目黒駅を見る度にこの話を思い出します。小生の祖父も日本鉄道の技師をしておりました関係で似たような話を聞いたことがあります。

補足コメント
渋谷川の河川敷から目黒川への三田用水の尾根を越えるルートは多分現在の東横線に沿って鎧が崎を経由して目黒川の右岸に向かったものと想像しますがコメントを心待ちしています。目黒不動付近は猫の額のような現在の目黒駅付近より平坦であり市街地として発展するには適していたような気がします。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。

最初に頂戴したコメントについては、昨日午後に本文後半を追記した部分をご笑納ください。火のないところに何とやら、というのは正鵠を射ていることが多いと思うのですね。

>渋谷川の河川敷から目黒川への三田用水の尾根を越えるルートは多分現在の東横線に沿って鎧が崎を経由して目黒川の右岸に向かったものと想像しますがコメントを心待ちしています。

御見込みのとおりかと私も考えています。代官山付近の谷を抜けて鑓ヶ崎に出るというパターンは、武蔵電鉄の計画などでも見られるので、地形的にはここを抜いていくというのがいい形になるかと思います。

コメント有り難うございます。目黒駅のオープンカットは当時としてはかなりの出費を強いられたとおもいますが、地主の干渉を嫌って中野から日野まで街道を無視して一直線の線路を敷設した甲武鉃道の例もありますので、どちらが良かったかは結果論ですので評価は困難です。

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