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2010/05/26

コメント

調布大塚に関する時代検証有り難う御座います。記憶がはっきりしませんが、鉄道ジャーナルのような雑誌の中で戦時体制下の電力節約のために500M未満の距離の駅の営業を休止させ、当時の市電でも停留所を大幅に間引きされ、通学する生徒は早起きしなければならないとぼやいでいました。通学定期も短距離は歩け歩け運動を強いられました。例えば下神明と大井町の間は認められないようなことがありましたので、この辺から圧力が掛かったのかもしれません。商店街の店主も大方戦後の方が多く、戦時中の企業整備令で殆ど廃業に追い込まれ、武蔵小山商店街の様に満蒙開拓団の悲劇を生んだ原因となりました。従ってりっこ様と同様に昔のことを知っている人は居なくなりましたので証言を取る手段がありません。友人も移転したり他界されたりでこれも又不可能です。

調布大塚のその後の調査結果
国立公文書館のアーカイブを東京横浜電鉄に絞り込んで検索しましたところ、
平12運輸02167100の件名番号019、昭和10年09月19日付けで雪谷駅位置変更と調布大塚駅廃止届けが出されています。原本を閲覧していませんので内容が分かりませんが公文書ですので信憑性は約100%でしょう。アーカイブの検索は絞り込みが最も大切ですがなかなか思う様にはソートされていないので色々な角度から切り込む必要があります。近日中にまた出かけようと思っています。余談ですが青写真の撮影はかなり高価なものとなることも学びましたが、本を一冊買うより安価で、興味深い情報が得られます。慶大グラウンドのところの距離ですが蒲田駅の起点が現在よりかなり国電寄りとなっていますので現在より長くなっているような気がします。雪谷車庫の所のカーブの変更も届け出がなされています。

新奥沢線跡
http://www6.plala.or.jp/k-network/tokyu/tokusyu/ikegami/sin-oku/sinoku.htm

私は詳しくないですが、このサイトの最後の方に

「また現在の車庫の辺りに調布駅があり、昭和11年の新奥沢線廃止の際に2つの駅が統合されて雪が谷大塚駅ができたそうです。」

との記述があります。

調布大塚駅廃止に関する補足事項
運輸省に対する届け出であるのか認可を受けてから着工するのか、また竣工検査を受ける必要があるのか、またこの届け出が事後報告であるのかで実施年月日が違ってきますが原本をみれば分かるとおもいます。許認可制であれば日付け以降に実施されたことになりますが、何れにしても1933年ではないと思います。

雪谷大塚駅の表示のある行く先板の付いた電車の写真が昭和20年となっていますが、尾灯(テールランプ)が1
個です。占領軍の命令で左右2個設けることが義務付けられましたのでその命令実施前であることは確かですので駅名変更は昭和18年頃かもしれません。公文書の検索を続けてみます。

 国立公文書館
運輸省の昭和18年から23年ぐらいの所があまりありません。戦争が苛烈化してから終戦の混乱期にあたりますのでやむを得ないと思いますが、丸の内北口にあった鉄道省のビルは頑丈で戦災は免れたと思いますが国民全体が食料調達に明け暮れた時代であったせいでしょうか。

vikke様
新奥沢
ヤフーjapanの中で(諏訪分を走った電車)で検索すると建設当時の航空写真が掲載されています。

XWIN II様
Yahoo!Japanの(諏訪分を走った電車)で検索された諏訪分付近の航空写真で耕地整理の状態が撮影されていますが貴殿のトピックスの一つとして取り上げて頂ければ幸いと存じます。耕地整理組合関係の知識に疎いのでご多忙中とは存じますが宜しくお願い申し上げます。

コメントありがとうございます。

>運輸省に対する届け出であるのか認可を受けてから着工するのか、また竣工検査を受ける必要があるのか、またこの届け出が事後報告であるのかで実施年月日が違ってきますが原本をみれば分かるとおもいます。

国立公文書館に残されている文書ですが、どうも体裁から見て欠落していると思われるものが多いと、以前閲覧に行ったときに感じました。もっとも、公文書というものは、裁判所の判決文に見られるように主文自体は短いもので、その理由について裁判であれば判例という形で残りますが、事案決定の理由を記載しているものはほとんどないので、なぜこうなった的な理解は困難です。とはいえ、明らかに添付されているであろう別紙がついていなかったり、原本自体が存在していない(よってインデックスにもない)ものも前後関係から多いように感じるところです。
よって、一度閲覧したことで、公文書館にはあまり多大な期待をしないようになりました。

>「また現在の車庫の辺りに調布駅があり、昭和11年の新奥沢線廃止の際に2つの駅が統合されて雪が谷大塚駅ができたそうです。」

リンク先を拝見しましたが、伝承の類かと思います。ただ、年月はともかくとしてこの記載通りの流れであるのは確かかと。

>Yahoo!Japan の(諏訪分を走った電車)で検索された諏訪分付近の航空写真で耕地整理の状態が撮影されていますが貴殿のトピックスの一つとして取り上げて頂ければ幸いと存じます。

この記事は私も数年ほど前からその存在を確認しています。ただ、何をトピックとするのかという点が、すいません、こちらに伝わらないです。

新奥沢線廃止/国立公文書館
不採算性を検証するために鉄道省は係官を現地に派遣して乗客が実際に少ないかどうかを調査させています。収支表も願い書に添付されていましたが中々厳しいものだなあと感じました。見聞日時は昭和10年1月23日で認可を9月19日に下ろしています。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。

当時も今も「廃止」についての許認可には時間がかかるものですね。
約8か月という期間は、むしろ短かった方かもしれませんが…。

XWIN II様
最近雪谷自治連合会で回顧録を作るために古い写真を募集しているという回覧板が回ってきました。どんな冊子ができるか楽しみにしています。まだ大部先の話ですが、一応お知らせします。

新奥沢線廃止の件
申し忘れましたが、当然と言えば当然ですが、多分協力した地主からだと思いますが反対の陳情書が綴じ込まれていましたのでその辺も認可が遅れた要因の一つかもしれません。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。

>最近雪谷自治連合会で回顧録を作るために古い写真を募集しているという回覧板が回ってきました。

私自身、写真撮影をへたくそなりに多くしていますが、撮った後の写真を見て思いがけないもの(意図しないもの)が写っていて驚くことも珍しくありません。注目どころが人によって、目的によって異なるので、そういう視点からも古い写真というのは興味深いものだと思います。どういう形で回顧録ができるかにもよりますが、一般にも見ることができるものを希望したいです。

>多分協力した地主からだと思いますが反対の陳情書が綴じ込まれていましたのでその辺も認可が遅れた要因の一つかもしれません。

お役所である以上、双方の意見は「形の上だけとしても」聞くでしょうね。遅れた理由とするか、通常の廃止よりも早かったのかは、他の許認可との比較をしてからと考えます。

古い写真
以前にブログに掲載された街と駅80年の情景東急80周年記念写真帖の昭和20年撮影とされる電車の雪ゲ谷大塚行きの行き先板の左下に工場検査のマークがありますが、多分元住吉で最後の検査年と月と下に次に予定される検査年と月が白い色のペンキで枠の中に記されています。しかし、はたして判読可能かどうかはわかりません。たとえ可能でも小生は特殊の拡大鏡を持っていませんので、その方法を研究してみようと思います。

古い写真
あらためてアルバムを見てみると被災した車両が左側に写っています。この車は昭和20年4月15日(この日に本門寺も炎上しました)に蒲田で被災した2両のうちの1両であると思われます。外形から3300型であることが分かります。従って撮影年月日はその日以後であるとになります。東急50年史によると昭和23年に復活させていますので、かなり早期に工場に搬送されたのだとおもいますのでやはり撮影は昭和20年頃であったでしょうが、当時の雰囲気として東調布警察の横で終戦前に一般人が撮影したとは考え難く、官憲あるいは終戦直後に撮影されたものと思われます。かなり絞り込まれましたが公文書が見つかりません。引き続き調査してみます。

昭和18年度の松栄堂の携帯用折畳式大東京地図では青山師範と府立高等となっていますが、昭和19年の日本地図社の東京都明解地図では第一師範と都立高等となっています。この両者とも現実に対象物の名前が変更されたのでそれに応ずることは当然ですが、しかし雪谷はそのままでした。同社の昭和20年の戦災焼失地図では雪谷大塚になっていますので、調査のタイミングから考えて昭和18年末に大塚が加わったのは大方確かでしょう。調布大塚小学校の小冊子には地元の天明氏の尽力で昭和16年に設立されたと記されています。調布大塚には警察署、消防署、水道局と調布町役場のあるミニ行政センターを形成していますのでその辺から大塚の名前を加える要望が出されたのでしょう。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。

>多分元住吉で最後の検査年と月と下に次に予定される検査年と月が白い色のペンキで枠の中に記されています。

これは写真のフィルムベースから見直さない限り困難ですね。書籍等に印刷されている情報では決定的に解像度不足で、いかなる処理を施しても欠落した情報を復旧させることは不可能ですので。

>調布大塚には警察署、消防署、水道局と調布町役場のあるミニ行政センターを形成

町役場は字大塚に隣接する大字下沼部にありますが、それ以外はすべて仰せの通り大字鵜ノ木の飛び地である大塚に属しています(その後、他へ移転したものもありますが)。また、それだけ尽力したという地主の言い分ですが、一方では大地主故、公的義務を果たしただけとも言えます。大塚は道路整備をほとんどしていないため、周辺と比べてインフラは立ち後れたまま。このあたりは同じ飛び地でも道々橋千束(大森区池上洗足町)と異なるところです。

コメント有り難うございます。元住吉工場での検査日を写真から復元することは不可能かもしれません。私は印刷技術のことは全く素人ですがベタではなく網掛けするのでなおさら復元は困難かもしれません。
たしかに環八西側の狭い道路と旧中原街道と交差するあたりは昔の面影を残していますが、逆に古い地図と対比するときの標定点となるので便利なときもあります。

 私は以前府立高等駅(今の都立大学)駅付近に住んでいましたが、昭和15年頃雪ヶ谷駅近くに引っ越してきました。蒲田よりに調布大塚?という駅がありました。その後、それが廃止され雪ヶ谷駅は雪ヶ谷大塚駅(昭和18年?)になりました。近くには日下山というところ(駅ではない)もあり、交番がありました。その後、交番は中原街道のところに移動しました。桐ヶ谷駅はその後戦時中に焼け、桐ヶ谷火葬場の最寄り駅だったのですが、廃止されました。
 蒲田駅には池上線の線路が2本と京浜線と並んで目蒲線の線路がありましたが、戦後の蒲田駅は、池上線の線路1本と目蒲線の線路1本になりました。交番も日下山から、中原街道に面したところに移動しました。
 帝国銀行(今の三井銀行)は、池上線からみて中原街道側ではなく、反対側(宮田屋側)にありました、
 今は雪が谷ではなく、横濱市に住んでいます。

貴重なご体験された情報をご教示いただき感謝申し上げます。
当記事を記して4年ほど経過しましたが、調布大塚駅の廃止時期については明快な解は得られていません。ご記憶どおり、昭和15年頃まで調布大塚駅があったとしたら、曲線変更工事後、しばらく生き残っていたことになりますが、それが営業中のものだったのか、それとも駅の形状を残しただけのものだったのか…。
何にしても、池上電気鉄道関係の歴史は今後も取り上げていく予定ですので、今後ともよろしくお願いします。

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