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2010/01/19

コメント

XWIN II様
貴重な写真有り難うございます。左側の部屋で不良ぽい先輩と酒を飲んだり煙草を隠れて吸ったりしたことを思い出します。どうせ禁煙を余儀なくされるなら始めから飲まなきゃよかったっと思います。突き当たりのホールで映画を撮影中にフィルムが燃えだし映写機ごと池に投げ込んだ話を聞きました。当時のフィルムは可燃性で長く停止すると照明の熱で燃えだすことがあったようです。

取り壊し、カウントダウン気味ですよね。

やばいっ 何とか近いうちに、見てこなきゃ。(>_<)
この会館は、有名なので、あちこちのブログで現在の写真は見かけたのですが……
大分老朽化が進んでいるように見受けました。
耐震関係で、公の場所として使うには、適さないと判断されてしまったのでしょうか。

「地図でみる大田区」を、最寄の図書館で借りることができました。
3本の合本になっていて、いや、重いしでっかいし。コピーを取るのに、汗をかいてしまいました。馬込村なんかも結構詳しく出ていて、これからまた改めてじっくり見ようと思っています。

あの。すみません。ちょっとお知恵をくださいませ。
例の「長原の映画館」のことなんですが。

大正14年には「演芸館」となっている建物が、昭和7年の地図には「活動館」と記載されています。私のイメージとして、「活動館」というと、イコール映画館て感じなんですけど、それでよろしいでしょうか?昔、映画のことを活動といったというような記憶があるんですが。
教えていただけたら、ありがたいです。 m(_ _)m

りっこ様、コメントありがとうございます。

「地図で見る大田区」、大変参考になる資料です。品川区や目黒区などでもこのレベルの資料をだしていただきたいと思うのですが…。もっとも今の大田区にもそれは期待できそうにありませんが。

さて、それはともかく「活動館」といえば、活動写真ではないでしょうか。おおせのとおり映画(トーキー)です。実体験したわけではなく後学なので、ほんとかどうかは何とも言えず。

りっこ様
XWIN II様
長原の活動館
私の記憶が正しかったことが立証されて、まだ私の脳に隙間が空いていないことが分かって喜んでおります、何時頃から映画と言う様になったか定かでありませんが、KINEMATOGRAPHの意味は活動写真の方が正確です。トーキーになったのが何時頃かも定かでありませんが、私が小学校の低学年のころは弁士が活躍していた様に記憶しております。当時は荏原区も大森区も都心からみれば田舎でした。建物が私が思っていたより中原街道寄りだったかもしれません。長原駅が地下化してから場所的な感覚がつかめません。

XWIN ll様
木造院電車両マニア様


ご回答、ありがとうございました!!
友人たちにも知らせました。
あとは、この「活動館」の名前がわかればいいなぁと思っています。

この「地図でみる大田区」見れば見るほどすごいですね。こんな資料があったのかと、びっくりしたり、驚いたり、感動したりです。
この資料のこと、教えていただきまして、ありがとうございました。

そりゃそうと。
長原には、昭和初期「長原百貨店」というお店があったんですね。写真も載っています。
私、このお店について、今まで1度も聞いたことありませんでした。一体どこにあったんだろう……そして、どんなお店だったのだろうと、これについてもまた興味がわいてまいりました。
長原

りっこ様、コメントありがとうございます。
この手の資料というのは、意外に「確実」でない情報が載っていることが多いです。現在にしても、国土地理院の地図はもちろん、多くの市販地図、ガイドマップなどなど。
写真掲載のものは信用できるのですが、やはり資料と同時に知っている方のお話しがあれば、補完できるのではないか、と。現在であれば、自分で出向いたり人に聞いたり等でわかりますが、古い資料だとそのあたりが重要なポイントですね。
私も地域歴史研究にあたって、資料収集以上に困難に思っているのは関係する(した)方のお話しです。なかなか一個人では限界もあるので、古老の聞き取りみたいなものを公的部門でやっていただきたいなぁと思ったりするのです。

XWIN II 様
本日品川図書館を覗いてみました。
あまり時間が無かったので荏原区史の町会史に的を絞りました。添付された図によると、
社団法人洗足会の
北部の領域は現在の小山7丁目とほぼ一致します。
南部の領域は洗足自治会に囲まれて飛び地になっていますが、以前説明した8丁目の一部と一致します。
戦時体制以前と以後の2枚の図を対照するとよく分かります。図を添付すべきですが80の手習いとやらでご勘弁願います。
一歩前進したような気がします。
 会報もみました。加入者の住所が碑文谷となっていますが目黒区洗足であると思います。目黒区史でしらべてみます。北千束も大田区史に載っているかもしれませんが環七の東側の一部であると思います。狢窪には目蒲線の変電所があり、電力も供給していました。
町会の切り口で調べるのも一つの突破口であると思います。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。

コメント遅延へのフォローまでいただきありがとうございます。洗足会報については、品川図書館にあるものが保存状態がいいようです。ただ、不特定多数の方々が安易にさわれるようになっているのが、逆に資料保存にマイナスを来すような印象も…。難しいところです。
なお、目黒区方面の資料としては「目黒区大観」が同時代資料としては優れたものだと後学者からは見えます。ただ、いかんせん当時を知らぬ者からでは本当にそうなのか、という疑問はぬぐえませんが…。
また、荏原区史に載っている町会区画図は既に私も入手済(あれをベースに旗の台駅周辺の町会区画図を作成)なので、ご指摘の文章だけで意味は通ります。ありがとうございます。

XWIN II様
りっこ様
社団法人洗足会
その後、品川区のホームページの町会の荏原第二地域の町会の一覧表を見ましたが、
小山7丁目は洗足会館がありますが洗足の名前はありません。
小山洗足町会の旗の台6丁目では13から19までを1区画で区別されてかろうじて社団法人洗足会の南台の面影をとどめていますが、洗足田園都市の名残は全体として希薄です。
洗足会報の役員には何人か名前を覚えている方もいますが、当然ですが土地購入者のみで地主はおりません。ただし特定郵便局長の鈴木氏は付近に地主の方がおり、大岡山には同性の地元の出身の友人がいました(清水谷小学校出身)。特定郵便局長は地元の名士が多く、士族救済の目的があったようですが同年の同窓生が故人となられたので聞くことができません。
東洗足町会は活動休止とのことで、廃駅がひびいているのでしょう。
目黒区は洗足駅もあり田園都市会社の所在地でもあったことや、目黒区の看板の一つですので調査結果に期待を掛けています。図書は貸し出し禁止ですので八雲まで都立大下車で行ってみます。
洗足2丁目の25か26に奥吉と言う精肉店がありましたが、越境入学で第二延山でクラスメートでした。全くお目にかかったことがありませんので消息はわかりません。

XWIN II様
りっこ様
本日大田区蒲田駅前図書館で地図で見る大田区の(2)の図VIII-3に目黒蒲田電鉄田園都市部が発行した洗足住宅平面図を見ましたが、社団法人洗足会と必ずしも一致しておらず、荏原区、目黒区と大森区の境界線が示されておりません。現在の地図とのすりあわせを行ってから目黒立図書館に行くかどうか決定します。貴殿もすでにご覧になったと思いますが洗足会との整合性をどのようにお考えですか。大森区史の町会の中には社団法人洗足会が含まれていました。同社の電話番号が高輪の3188となっていましたが当時の荏原局は高輪局の子局でした。私が覚えているのは既にダイヤル化されており、局番が48でした。78になったのは戦後間もなくです。ダイヤル化が早かったのは、これをシーメンスから導入された工学博士の方が南台に住んでおられ、ご子息さまは電電公社の総裁を勤められその弟様は第二延山でクラスメートでした。問題点は洗足会への入会は必ずしも義務化されていなかったのでしょう。旗の台6丁目33も販売済となっています。

XWIN II様
洗足住宅平面図の境界線ですが、駅の名前が洗足公園になっているので1932年10月1日以前であるので平塚町と碑文谷町と北洗足町の間の境界線が無いのが当然ですので申し添えます。
小出しの情報提供で申し訳ありません。
また各地域毎の分譲地の境界線はゼンリン地図で確認しながらとなりますので時間が掛かると思いますが、入り組んでいる所もありますので作図もまた容易ではありません。
1トピックの容量は制限されいるのですかお伺いします。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
まずはじめに。1コメントの長さについては当Blogシステムに依存しているのですが、仕様については未確認です。ただ、経験則上1,000文字程度はいけるはずです。

洗足田園都市よりも後発ですが、現在も町会機能を維持している社団法人田園調布会のエリアは、世田谷区部分を除いても、実は多摩川台分譲地(調布田園都市)とその区域は完全に一致していません。もちろん、実際に分譲されなかった所を除いても、です。
建前上は、田園都市株式会社が分譲した所をもって会員となす、ということであっても、エリア内の非会員という存在以外に、エリア外の会員というのも例外としてあったのかもしれません。(以上推測)

いずれにしても、洗足田園都市エリア並びに社団法人洗足会エリアは、当方で既に把握しておりますので、あとは図化し議論を展開する下準備を整えているところです。
ただ、その前に手持ちの池上電気鉄道ネタをこなしてから、となりますのでご容赦願います。

XWIN II様
当方もこの電鉄の住宅図からぼちぼちと境界線付近の摺り合せを行ってみたいと思いますが、有隣社の所は複雑に入り組んでおり、環七も拡張されているので実態が掴み難い所がありますが古い記憶を更に辿りたいと思います。北千束に行く道の所に従兄弟が住んでおりましたが、いち早く立ち退きに応じてその資金で事業に成功しました。人間折れる所は折れて素直に進むのが健康のためにも良いようです。
現在住んでいる池上線のネタを楽しみにしています。

XWIN II様
郊外住宅地の系譜
本日目黒区立図図書館のホームペイジで『洗足田園都市」を検索しましたら掲題の本が表示され、関係用語として『洗足田園都市は消えたか」を目黒の言葉として参照事項に引用されいました。この言葉自身私の頭の片隅に残っていましがが、多分新刊書の広告を読んだ時かもしれません。ISDNで大田区で検索した所,池上にありましした。第1回の発売時の住宅図を始め崩壊していく過程の地図が時系列で掲載されており、昭和モダニズムのムード溢れる住宅の写真が掲載されており大変興味深く拝見しました。ただし南台は掲載されておりませんが、解決済ですので問題ありません。これからゆっくり検討してみようと思います。目黒区役所のSEが気を利かせてレファレンスに入れてくれていたお陰だ推測していますが、貴殿のアドバイスなりありましたらご教示下さい。娘に何時も検索が不熱心であると怒られています。
ちなみに父は友人がローンの支払いに行き詰まって肩代わりして購入したもので、当初は田園調布を考えていたようです。裸一貫で築き上げた父ですので越境入学などもってのほかですので、このことが生来怠け者の私を受験校である第二延山の修羅場に投げ込んでくれて鍛えてくれたものと感謝しています。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。

「郊外住宅地の系譜」は、私も20年程前に購入しており、今も本棚にあります。洗足や田園調布以外にも多くの話が集められているので参考になりますね(ただし多数の著者による論文集なのでまとまりはないですが)。
住宅ローンのお話しについては、洗足は土地の割賦販売の元祖的なもののようです。

XWIN II様
情報有り難う御座います。
田園都市株式会社の平面図で注目した点は:
 造成されていない所Jから道が狭くなってますが現在は造成計画の延長線上に区画整理されてますのでおそらく整理組合がこれをたたき台としたのでしょうか?
 洗足2丁目の湾曲した部分が現在でも宅地の境界線として残っています。分筆されても基本の土地の形態は残されるのでしょう。
 荏原7丁目の19のあたりに小学校用地と記載されていますが、延山小学校の分校を誘致しようとしたのか、他の私立名門小学校を誘致してセールスポイントとしたかったのでしょうか?
 まだ空き地が多数あるようですが、電鉄の平面図ではほぼ完売状態になっています。電車は多摩川までしか開通していません。大震災にもかかわらずたいした損害も無かったこことは武蔵野台地の耐震性を物語るのでしょうか?父も三年町に住んでおりましたが溜池地区とは損害に大差があったと言っていました。
 地主の協力が得られないのでギブアップし、経営資源を調布地域に集中した結果が現在の状況の原因でしょうか?

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。

「造成されていない所から道が狭くなってますが現在は造成計画の延長線上に区画整理されてますのでおそらく整理組合がこれをたたき台としたのでしょうか?」→田園都市北側に隣接する碑文谷耕地整理組合は、先行する田園都市の道路と合わせる形で配慮はあったはずですが、一部接続できていない所もあります(行き止まり)。また、道幅が突然変わるところもありますが(品川区側にもあり)、これも田園都市との境です。耕地整理組合間で、道路パターンは協議の対象となっていた(設計者が同じ場合は一体的に行われたことも多い)はずですが、中にはまったくかみ合わない所もあり、今でもその影響を引っ張っているところも少なくありません(城南地域では大田区久が原と東嶺町の境に見られます)。

「洗足2丁目の湾曲した部分が現在でも宅地の境界線として残っています。分筆されても基本の土地の形態は残されるのでしょう。」→洗足田園都市の西側湾曲境界は、排水路(下水)として分譲地内に確保されたもので、今でも確認できます。

「地主の協力が得られないのでギブアップし、経営資源を調布地域に集中した結果が現在の状況の原因でしょうか?」→結果的にそうだと思います。大地主と言うよりは、投機目的でおさえた小規模地主(土地転がし)との折衝に時間がかかりすぎると言うこともあったかと思いますね。

XWIN II様
ご返事有り難うぎざいます。
 私の住んでいる所でもラビリンスの様になっている所があります。地元の区会議員と飲み屋?で歓談することがあいましたが、宅地の質は耕地整理組合を束ねる政治力で左右されると言っていました。多分手前味噌でしょうが? 私道のような所はインフラ整備も後回しになり後遺症は深刻です。現在は高血圧で酒は慎んでいます。
 洗足2丁目の湾曲部分ですが、そこに小学校のクラスメートが住んでおり、後に東大工学部の有名な教授となられましたが惜しくも他界されました。洗足駅からですと下り坂になって窪地のような所でしたのでなるほどと思いました。
 ゼンリン地図を見ていると懐かしい名前が見つかります。洗足会の役員の方もおられましたので境目を確定するのに役立ちます。
 次に貴殿の各論が出た所でそれぞれにコメントさせて頂きます。

 

りっこ様
長原百貨店
地図で見る大田区の(3)の商業地図に載っています。長原駅を出て左に曲り、商店街を突き当たって右に中原街道の洗足坂上にむけて進み、以前平面交差であった池上線の踏切をこえてすぐ右側のようです。問題の活動写真館はその先のはずですが字が判読できませんでした。生鮮食料品の色々な店が入っている公設市場のような所だと思いますが確信はありません。

XWIN II様
有隣社の件で平塚橋の同潤会住宅と混同しました。申し訳ありません。しかしミニミニ田園調布の目的はいま一つ分かりません。復興事業の一環でしょうが場所としては不適格なような気がします。

「公設市場」

あったんですねぇ~
私、そういうお話も、つい最近まで知りませんでした。
実家のそばにもあったという父の話がありました。
中原街道沿いの、今、ワンルームマンションが建っているあたりから、東洗足駅方向は、広い野原で、そこに市場があったという話でした。

あと、洗足駅の五岐路にも、昭和40年代まで市場があったということで、こちらは母が覚えておりました。

今、三間通りを旗の台から中原街道へと上っていったところの交差点、角がガソリンスタンドですよね?
あそこ、ガソリンスタンドになる前は、同級生のおうちで薬局でした。その薬局の店主さんは、そこにお店を開く前には、洗足でマーケットを開いておられたという話をお聞きしました。もうちょっと詳しく聞けるといいなと思っています。友人なので。

木造院電車両マニアさま

長原百貨店のお話、ありがとうございます。
その商業地図は、コピーいたしました。現在手元にあります。
何よりも、「大森区」の商業地図が現存していたんだ!ということに、感激いたした次第です。
写真もついていますよね。結構大きかったのかなと。どこらあたりだか、もう少し詳しくわかると嬉しいのですが。残念ながら私の両親は、「記憶にない」ということでした。

りっこ様
地図で見る大田区の内容が図書館により異なっているような気がします。図書館巡りと行きますか?
目黒蒲田電鉄田園都市部の昭和6年当時の住宅地図にりっこ様がお住まいになっていた所が販売されています。この問題はXWIN 様の詳しい説明を待つこととしていますが、参考迄にお知らせします。薬局は神泉堂だったとおもいます。近所のお稲荷さんのお祭りに行ったことを思い出しました。

XWIN II様
昭和10年の荏原区と目黒区の地図を見ますと、
小山町の西の端と目黒区洗足町の西南には田園都市会社経営と明記され、小山町と中延町の境は現在の境より南側で山屋坂の道を挟む様になっていて道の南側の家の門は北側にこの道に面していてより自然です。中延町には田園都市の記載はすでに無く南台は無視されているので、両親が田園都市は目蒲になってから冷淡だと言っていたことを思い出しました。目黒区の大森区境から円融寺に行くバス通り迄の町境は湾曲して田園都市の境界線と一致しています。何れ貴殿の詳述があると思いますが気がついた点を指摘しました。

木造院電車両マニア様

薬局なんですが、神泉堂は、今でも昔と同じお店で、三間通りに面してありますね。ただ、残念なことに、ご店主の方は、去年の暮れに、お亡くなりになりました。私が最近三間通りを歩くと、神泉堂、お店にシャッターがおりていることが多く、このまま閉店してしまうのかとやきもきしております。長い歴史のあるお店ですね。

友人の薬局は、神泉堂さんではないのです。三間通りを上りきった交差点の角です。
ガソリンスタンドの前は、ここが薬局であり、ここのご店主が、ずっと「平塚八丁目町会」の町会長さんでした。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。

耕地整理による区画とそれ以前の区画(境)が一致しない例は、道路を引き直すことで必然的に変わるのが常ですが、これをどう踏襲しているかが問題となります。
具体的には、昭和7年に荏原郡をはじめとして多数の町村が東京市に合併されますが、この時の町村境、あるいは大字境等が耕地整理によって新たに設定された境界線を踏襲せずに、耕地整理前の境界線をそのまま適用した事例が多数あります。こうした理由は、あまりに境界変更要望が多数に及んだため、東京府が公式に認めた(つまり警視庁東京府公報で告示した)もの以外はすべて否定したためで、町村レベルでの境界設定は無残にも否定されます。よって、道路とは無縁のところで境界線が引かれ、運が悪ければ区が異なるところも出てきたほどです。
こういう経緯を踏まえて洗足田園都市も検証中だと申し上げておきます。なかなか一筋縄では行きませんが…。

XWIN II様
境界線
情報有り難うございます。昭和7年の大東京の改正に追い打ちを掛けるように隣組を末端に行われた戦時統制が小山7/8丁目を生み問題を複雑化していることはまぎれも無い事実です。

XWIN II様
洗足会
ご説のとおり目黒区の資料ではあまり参考になりませんでした。唯一の収穫と言えば個人的な問題で申し訳ありませんが財団法人洗足会の会長の南雲利章氏は私の小学校のクラスメートの父君で、同君は洗足の湾曲した所に住んでおり東大の電子工学の権威となられましたが残念ながら他界されました。このクラスは幹事がすべて他界されましたので会を解散の已む無きに至りましたので情報の収集は絶望的です。

XWIN II 様
洗足田園都市との境目
ゼンリンの住宅地図を改めて見ると、ご説のとおり洗足2丁目では、境目のところでこれ見よがしに行き止まりになったり幅が狭くなっている道路が数カ所あります。もっったいない話ですね。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。

耕地整理による減歩率の多寡によって、耕地整理組合が対立・分裂することは珍しくありません。田園都市耕地整理事業と周辺の耕地整理組合が行う事業とでは、その考え方も異なるところは大きく、例えば、今日の自由が丘と緑が丘は、昔は谷畑地区として一つだったものが、耕地整理を契機として二つの耕地整理組合に分裂し、道路の接続は考慮に入れたものの、道幅が異なる部分は今でも確認できます。もったいない話は、それこそいたる処にあるんですね。

XWIN II様
耕地整理/減歩率
小生の父は戦前に名古屋に支店を持っていましたが、市民全体が土地の一定の率を供出して大規模な都市計画を実行しました。名古屋の人は従順でお上に従うと当時皆で話し合ったものですが、今日の大阪を抜いた経済力が日本の柱になっています。

洗足田園都市
洗足駅の北側の排水路のご指摘から、線路の南側の排水路の切り口から住宅地の平面図を見てみると、三間道路から洗足駅に向かう道路の山屋坂とぶつかる所から五叉路を経由して目黒区との境界線に沿ったすり鉢状の低地に大きな排水路があり、目蒲線のガードをくぐると小川のような排水溝に流れ込み最終的には立会川に流れ込んでいました。小学校の頃は蓋がありませんでした。このJ排水路に向かって道路が葉脈のように造成されており、分水嶺のところまで宅地が造成されてる様に思われます。分水嶺の先は立会川に向かって下り斜面になっており別系統ではないかと思います。次に太田文化の森の図書館に行った時に宅地に等高線が入った地図をコピーして当てはめてみたいと思います。小生は南台でしたが排水が三間道路に沿った水路に流されていたのか前記の水路に流されていたのか分かりません。しかし戦争が苛烈になるまえのどぶにはコンクリの蓋があり、定期的にヘドロの浚渫が行われていたので、田園都市で実施していたとすれば費用負担の問題がありますので山屋坂側に流されていたと思います。この切り口が貴殿の研究の一助となれば幸いです。

社団法人洗足会
役員の電話番号が高輪と青山の両方の局番が混在しています。高輪の方が荏原郡の方でしょう。中には呼び出しもありました、当時の加入状況が分かって興味深く拝見しました。」

改めてこの写真をよく見てみたら、右端の方、池に見えるのですが。これ、弁天池ですか?
昭和20年ごろの地図を見ると、洗足会館の庭まで、弁天池になっているのですが。
池のほとりに立っているポールのようなものは、街灯でしょうか。それから碑みたいなのも見えるんですが。

教えていただけたら幸いです。

りっこ様、コメントありがとうございます。

弁天池?ではないように思います。昭和8年の航空写真や戦後の航空写真を見る限り、ですが、池と言うよりは…う~ん、親水公園みたいな(規模が違いすぎますが)感じでしょうか。なお、池の大きさはかつては南側道路向こうまであり、現在は半分以上が駐車場になっているので、会館の庭部分までは当たり前のように池面が広がっていたと思います。
なお、碑のようなものは洗足会館等の由来が書かれている記念碑で、今は外からは見えません。この写真の場所から撤去されたのは確実ですが、どこに行ったのかはわかりません。
ポールのようなものは…照明としては背が低すぎるようにも…。

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