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2010/01/13

コメント

小生の戸籍謄本の住居は東京府下荏原郡平塚村大字中延で、櫓の周りで東京音頭を踊りながら大東京となり、番地も荏原区中延町となりまいた。その後三転四転して現在に至っています。万葉集の香りがする東京市の紫匂う武蔵の野辺に月の入る端もなしの歌ができたのもこの頃です。

私の実家もそこまでは全く同じです

荏原郡平塚村大字中延ですよね。
先日、実家に行き、祖父母の戸籍が出てきたので、もらって帰りました。祖父母は、大正9年に結婚し、昭和4年から、現住所へ転居。以降ずっとここにいます。場所は変わらないのに、住所表記だけがどんどん変わっていきましたね。

木造院電車両マニア様、りっこ様、コメントありがとうございます。

住所(土地の名前)については、公式上のもののほかに私的、というにはあまりに広く知れ渡り、国の1万分の1地形図などにも記されたものがあります。こういう地名は、その当時においては広く普及(人口に膾炙)していたはずですが、公式でないが故に記録されず、当時は殆ど知られていなかった小字名が記録されていたために残され、それがあたかも当時の人たちがその小字名を土地名に使っていたという誤解を招来する例があります。
また、旗ヶ岡駅の所在地は駅開設当時は「大字中延字四段田」ですが、1万分の1地形図などには「四反田」と記載されており、実際、池上電鉄が鉄道省に提出した文書では「四反田」と記載されています(とはいえ、手書きあるいは手タイプ打ちなので誤りが多かったりしますが)。

そういう話は当時を実際に体験された方々でないと知りようがないので、個人の力ではなく、何とかならないかなと思ったりしますね。

XWIN II様
兄弟や親戚を呼ぶ時に小字を使用して、例えば身内の間では笹丸はこの頃どうしているかと言うような方法で話すことがあります。住んでいる所を姓とすることは様の東西を問いません。八幡太郎義家の息子は足利を名乗り、その子孫は、三河の細川の荘、今川の荘、吉良の荘と言う様に住んでいる地名が姓となることが多々あります。城南地区でも平塚村の人口の爆発的増加で単独で荏原区になったように聞いております。昭和20年5月24/5日の空襲で荏原区は壊滅的な打撃を受け、区役所の兵籍簿が焼失し、戦争最後の召集令状は送達されませんでした。私は本籍が神奈川県でしたので幸か不幸か柏の83部隊に招集されました。おかげて国民の税金で出雲の国まで旅行を楽しむことができました(笑い)。

古い地図を見ると、「旗ヶ岡駅」じゃなくて、「旗ヶ丘駅」になっているものが結構あります。これも、当時の手書きによるミスですよね。

木造院様は、戦争に行かれたのですね。ご苦労なさったと思います。
今は亡き主人の父も生きていれば、今年85歳。詳しい話は聞いたことがないのですが、兵役を経験しています(写真が残っています)

荏原区って、その空襲で、そんな打撃を受けたのですか。木造院様のご自宅は大丈夫だったのでしょうか?
我が実家は燃えませんでした。なので、今年で築81年目という、「家は昭和の時代をずっと知っている」状態になっています。

ところで、大字・小字ですが、私が今住んでいるのは、政令指定都市なんですけど。
地籍的には、しっかり大字・小字がついていて、「田舎だなぁ~」と思います(笑)

りっこ様
兵役に就いたと言っても6月に入営して8月に終戦ですからお土産の米を貰いにいったようなものです。私の家も戦災に遭いました。洗足池に避難して帰ってくると家の前で犠牲者の方が倒れていました。小山の方のの方だと後で知りましたが、多数の家屋が一度に燃焼したための酸欠ではないかと思います。荏原区だけでも85%が焼け、数千人の犠牲者を出したとのことです。竜巻状に炎が上がり逃げられなかったのでは無いでしょうか。ご実家は昔のまんまとのことですが中原街道の拡張されない側ですか。当時交響楽団の練習場があり、近衛秀麿氏も来られたと聞いています。前が原っぱでよく凧揚げをして遊びました。私の大学の後輩で女子バレーボールチームの監督の松平氏もまだ子供の時に一緒に遊びました。

木造院電車両マニア様

「交響楽団の練習場があり」→ はい。近くです。
私が小さいときには、まだ練習しており、音楽が聞こえました。

「女子バレーボールチームの監督の松平氏」
すみません。もしかして、「男子バレーボール」ですか?
ご子息、私の幼馴染です。小学校5年生で、崖からの転落事故で亡くなったときは、大ショックでした。一人息子さんだったし。

木造院様。よろしかったらご住所、旧地名で、どのあたりだったか、教えていただけませんか?私の実家は、上記のとおり、NHK交響楽団の近くです(笑)

あ。それと、もしも、ご記憶にあったら、もう一つお聞きしたいことがあります。
それは、中原街道に面していた「三光荘」というアパートのこと。
古くから長く学研の隣にあり、私の小学校の同級生の家でもありました。
が、私の他の友人いわく、あそこのアパートのつくりは、普通のアパートではない、もともとは何だったんだろう?ということなんです。何でもいいので、ご記憶がありましたら、お教えいただけたら幸いです。

りっこ様
松平氏は男子バレーボールのチームの監督の誤りでした。ご実家の場所は築80年ということで大体想像がつきます。NHK交響楽団の前の道を松平氏の家の方に昇っていく途中の左側の角に吉田さんのお宅がありますがそこのお嬢様は私と第二延山小学校で同じ学年でした。最近お目にかかっておりません。そこから更に進んで大井町線の踏切を渡り、すぐに右に曲がった並木道の奥が松平氏の家ですが、更に進むと東西の道に突き当たります。私が住んでいた場所は次の東西の道です。NHK交響楽団の前の道と中原街道と交差する所で我侭な母は車掌に命じてバスを止めさせてはらはらしたことを覚えています。三光荘については残念ながら全く記憶がありません。公開ブログですのでこの辺で御勘弁願います。

木造院電車両マニア様

おはようございます。そしてありがとうございました。
坂道を上がった左側に、今でも「平塚住宅」というアパートがあります。
あれもナゾです。なぜナゾかというと、アパートとしての建物はたった1棟なのに、敷地が余りにも広い……いつも塀の外からながめて、どうしてこんなに広いのか、不思議に思っています。父いわく、あそこは昔は林で、焼夷弾が落ちたときの類焼をふせぐ役割があったとか、母いわく、アパートが建つ前は、植木屋さんだったとか。
でも、余り正確なところがわかりません。ご存じなことがあったら教えていただきたいです。あと、あそこが何年ごろ建ったのかも(昭和30年代か20年代ですよね?)1度だけ中に入れてもらったことがありますが、とにかくその庭の広さ!都会のアパートの敷地としては考えられないぐらいで、公園みたいです。

木造院様のおうちは、やはり、あともうちょっとで清水台、という学区域だったみたいですね。昔は清水台はなく、全部第二延山の学区域でしたが。

ここを初め、大井町線の踏切は、大体無人で。電車の来る間際まで、皆通行していた記憶があります。
先日、中学校の同期会を開いたら、お父様が東急線旗ヶ岡駅の踏切番のお仕事をなさっておられた、という方がいて、今さらながらびっくり!
惜しくもその方のお父様も、もう鬼籍。お話が聞きたかったです。

XWIN II様
作図の技術のすばらしさで羨ましい感じさえします。以前にも述べましたが、緑の線のルートはかなりの急勾配です。等高線を重ねて見るのも一興です。昔の標高が尺貫方ですので実感が湧かないのに閉口します。ヤフーで久が原舌状台地を検索した所詳しい等高線が示されています。池上線も雪谷まではほぼ平坦であることが分かります。

りっこ様、コメントありがとうございます。

平塚住宅については、建設年代(おそらく昭和30年前後)から考えると、5階建てアパートではあのくらいの建坪率及び容積率で建てることは珍しいことではなかったように思います。たったの1棟なのでぴんと来ませんが、数棟並ぶ昔の団地をイメージしていただくとあのくらいの空地は十分に確保されているのでは、と。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。

拙い作図をお褒めいただき、ありがとうございます。等高線については数値地図などを活用する方法もあるのですが、やはり自分で作図することに意味があると思うので、高度が必要な作図では作ってみたいという「意欲」はあります。もう少し時間があれば、あれこれやりたいとは思っていますが…。

りっこ様
平塚住宅ですがお庭が広い大邸宅があったような気がしますが入ったことはありません.近所には大勢の友達がいて遊びに行ったり来たりしたものですが、このお宅には行ったことがありません。お子様がおられなかったのかもしれません。当時の子供同士のつきあいは濃密でした。
学区域ですが二部授業を解消するために一部の同級生が転校を余儀なくされました。それでも今と比較すればクラスの人数はかない多かったようです。現在の人数は当時の名門私立小学校並みです。
大井町線の踏切ですが線路に石を置いて踏み切り番に怒られました。悪ガキですね。ここで自動車と衝突する大事故があった記憶があります。
この踏切と東洗足寄りの踏切の間の三角型の土地は昔は中原街道までと同様に空き地で,凧揚げなどの子供の遊び場でしたが(最近は滅多にありませんが),たき火をしていたら枯れ草に燃え移って火事になりそうになりましたが幸いに近所の大人が消し止めてくれました。

XWIN II様
作図の具体的な方法を知りませんのでしたので勝手なことを言って申し訳ありません。昔トレーシングペーパーになぞって縮尺して版下を作ったことがありますが、根の要るしんどい仕事です。何時でも結構です。ご無理をなさらぬようにお願いします。

私も、この作図の美しさ、精密さ、そしてわかりやすさに、賞賛する一人です。

そしてこの地元歴研究全体、1冊の本にまとめて皆に読んでもらいたいというか、図書館にあったらいいだろうなという1冊、ではないかと思います。
これからもよろしくお願いいたします。

余談ですが。
都立図書館で火災保険特殊地図の荏原区や大森区をあれこれ見てまいったのですが。
「肝心なところがなーーーいっ (>_<)」という状態でした。
それにしても、都立図書館は、手続が煩瑣。古地図を見るのだったら、指定された場所があり、そこのみでしか閲覧できません。そして、もし地図を借りてコピーしたいと思ったら、
パソコンで申請する→自分の番まで待って(約10分)貸出カウンター→閲覧→コピー許可申請に判こをもらう→コピー窓口で申請書を書いて提出→1枚25円でコピー係にお願いし、15分待つ→ようやく手元へ
ということで、かなり煩瑣です。しかも、取りたいところを間違えられたりする(それはさすがに無料でコピーし直してくれますが、さらに15分かかります)

そして地図を見たら、それは全部品川区立図書館の開架図書にあるものばかりでした。
品川区立図書館では、どこの箇所をコピーするか、申請する必要すらありません。幾らでもコピーできます。そして開架図書には、本当にお宝がいっぱい。
また行ってみたくなっちゃいました。遠いんだけど新馬場(笑)

りっこ様
都立図書館は著作権保護法を忠実に遵守する模範的な施設ですので、工業権を扱ったものとして許されざることですがついつい敬遠しがちになります。

りっこ様、コメントありがとうございます。

やはりもっとも時間のかかる作業は「資料の収集」ですね。公文書館などにも足を運びたいと思ってはいるのですが、いかんせんお役所なので9時5時というのが…。
図書館ではないとわかっていつつも、せめて土曜日だけでもあけてもらえないかな、と。
その点、品川図書館なら土日もやっていますので、以前にも教えていただきましたが、今度こそ行ってみようかと考えています。

なお、作図した地図ですが、最初に作った手間が惜しいので、多少の手直しで各時代に対応可能なものとして総括編で使い回すことにしました。少しでもご参考になれば幸いです。

りっこ様
平塚住宅
昨日小学校で同学年の友人と旗の台駅の近所のじれっ亭と言う洋食屋で久しぶりに歓談しましたが、平塚住宅は元大邸宅で池がありクジャクが飼われていて電車が通ると鳴き騒いだと言っていましたが、名前は忘れました。

木造院電車両マニア様

そうなんですか!!!
それは、初耳です。私の祖母から母へと伝わった話では、「あそこは植木屋さんの持っている土地(苗木が植わっている、いわゆる植木屋さんの畑みたいなもの?)だった」という話でした。
大邸宅。。クジャクが飼われていたなんてスゴイですね!
どんないわれのある方なんだろう。またまた興味がわいてきました。
ありがとうございます。

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